■伊藤明彦(いとう あきひこ)さんデータ 
※ほぼ、過去に公開されたデータで構成していますが、扱いには十分ご留意ください。
項目  内容  付記
生年月日 1936年(昭和11年)11月5日  
出生地 東京都杉並区 本籍地:山口県宇部市
兄姉 8名、うちご本人は末っ子 すぐ上の兄とは双子。
ご本人死亡時、5名存命。
関東:3名、名古屋:1名、長崎:1名
幼少の頃 1944年長崎市へ転居 原爆投下時は、山口県に疎開
被爆 投下から10日後長崎市の自宅に戻り入市被爆。 当時8歳 被爆者手帳:保有
小学校 長崎市立 勝山〈かつやま〉小学校  
中学・高校 私立 海星〈かいせい〉中学校・海星高等学校 所在地:長崎市 中・高一貫、当時は男子校。
1学年上に美輪明宏さん。
大学 早稲田大学第一文学部 1960年卒業
長崎放送(NBC)
勤務期間
1960〜1970年 退社の理由は、自身が企画・提案したラジオ番組「被爆を語る」の初代担当となったものの、ほどなく(約半年後)担当を外され、佐世保支局勤務を命じられたため。
上記以外の勤務歴 音声証言取材中は、キャバレーの皿洗いなど深夜・早朝のアルバイト中心(日中を取材に当てるため)。
夜具や冬の暖房もないほど貧しく、『自分より貧乏な被爆者に会ったことがない』。
1979〜1992年 経営コンサルティング(株)信研
音声証言収録期間 1971〜1979年(夏) 青森から沖縄まで、21都府県
音声証言収録者数 1,003名
(広島、長崎、ビキニ・第五福竜〈龍〉丸)
約2,000名に申し込むも、半数は断られる
音声証言収録機器 NBCの退職金で購入したオープンリール・レコーダー(ソニーTC-365系統のモデルと思われる)。 2トラック・モノラル。重さ13kg。
音声作品 1982〜1985年 制作・寄贈 オープンリール版 「被爆を語る」(51人分52巻 約70時間)
 全国14施設へ寄贈
1989年 制作 カセットテープ版 「被爆を語る」(14人分14巻 約18時間30分)
 1989〜1992年夏にかけて全国944施設へ寄贈
2006年 制作 CD作品「ヒロシマ ナガサキ 私たちは忘れない」(9枚組 約8時間40分)
 2006年 全国547の施設・団体・個人へ 計764組寄贈・贈呈(うち少部数は米国)
ビデオ証言収録期間 2006年11月〜2009年1月 06年11月〜07年11月:広島を拠点に180名
07年11月〜08年10月:東京を拠点に120名
08年10月〜09年1月:長崎を拠点に49名
英語のできる方(現時点22名が判明)には英語でも収録
※行き詰まり気味の収録と疲れにより09年1月中旬一時帰京。再開する気持ちもあった模様
ビデオ証言収録者数 349名  目標は500名でした
ビデオ証言収録機器 DVテープ(SD収録)。 キヤノン製を皮切りにソニー製など。(少なくとも5台。収録数が多いため すぐにダメになる。)
結婚歴 なし もてた(本人談) v(^_^)
没年月日 2009年(平成21年)3月3日 午後9時34分 72歳
死亡場所 東京慈恵会医科大学附属第三病院
通称:慈恵医大第三病院
東京都狛江市和泉本町4-11-1
03-3480-1151
死亡原因 肺炎。 2月27日に「風邪気味」で近所の医院を受診。 3月1日、小康状態だったのか外出。 3月2日の朝、朝食の呼び掛けに反応しないのを心配したホームの人に、もうろうとした状態で発見され、緊急搬送。
室内のパソコンとプリンターは点いたまま。夜間に「被爆者の声」サイトを知らせるチラシを印刷していた模様。
緊急搬入されてから約40時間後、集中治療室を出ることなく死去されたので、『入院していた病院で死亡』と表記するのは違和感があります。
死亡時の自宅 〒182-0022 東京都調布市国領町8-9-3
サン・ラポール調布304号室
サン・ラポールは、いわゆる有料老人ホームですが、独身の伊藤さんにとって、「食事と健康管理の付いたマンション」としての入居でした。
伊藤さんが入所したのは、66歳の時(2003年〈平成15年〉10月)。 亡くなる直前まで元気すぎるほどでしたので、説明抜きで『老人ホームに入居中の』といった記述は、違和感があります。
なお、入居期間の約半分は長期取材で部屋を空けていたため、実際の在所期間は、ずっと少ないです。
2010年09月16日版
伊藤さんの写真はこちら


■サイトの誕生
項目  内容
きっかけ 2006年4月7日 日経夕刊に載った「CD希望者募る」の記事を見て、翌日 私(古川)が伊藤さんに電話。『どうせならインターネットで公開しませんか』と提案し、快諾。
この時点で私にホームページ構築の知識は、ほぼゼロ。何とかなるでしょ。
CD到着 4月15日 CDが到着。早速聞いてみる。圧巻。私は、長崎出身で、被爆ばなしは結構聞いていましたが、臨場感が違います。
音だけじゃもたない 単に音声が聞けるようにすればいいか、と軽く考えていましたが、インターネットは、ラジオじゃないから音だけでは、間が持たない。ならば、文字を付けようと思い立ちました。
最初は、証言の要約を表示しようと考えました。が、音声と同時に表示してみると、文字が先走り、聞いてしまったような気になる。これはいかん。やっぱフルに文字起こしだな。
協力者を募る 8時間40分の文字起こし。丸一日自宅パソコンで没頭する。も、はかどらない。。。 1日にディスクの1/4位がやっとこさ。 ものはためし。長崎人なら方言判るし。と、在京生を中心とした長崎東高校と桜馬場中学校の同窓メーリングリストに協力依頼を書き込んでみる。
えっ、うそでしょ、8名もの方が手を上げてくださいました。同学年もいますが、上の世代も下の世代も。
資料とリンク テープ起こしをする過程で、たくさんのホームページと出合いました。 これらは証言を理解する上で役に立つ、と考え、先達のページにリンクを張らせていただきました。
連絡できるところは可能な限り連絡をとり、趣旨をご理解いただき、多くのページが相互リンクしてくださいました。感謝。
伊藤さん来訪 ホームページは、文字起こしの終わったものから順不同で順次公開しました。
2006年5月20日、伊藤さんがこちらへお見えになりました。初対面です。
その時の様子を対談風にまとめてみました。

●ホームページ(HP)を見ていただいて
この時点では伊藤さんのお宅はNet環境がなく、パソコンもなかったので、インターネットそのものが初体験です。(ワープロ専用機は所有され、キーボードは慣れているものの、マウス操作は初体験です。)
一通り、HPの構成を説明したのち、

伊「大変だったでしょ、テープ起こし」
古「電話でもお伝えしましたが、多くの方に手伝って貰いました」
伊「ありがたいことです」
 ・ディスク1画面を見ながら…
伊「証言002の輜重隊(しちょうたい)とか、よく分かりましたねー」
古「ネット検索で探しました」
 ・ネット検索のさわりを少し実演
古「で、証言の中で解説した方がよいところには、リンクを張ってあります」
伊「なるほど、ディスク9の、チャンコロとか出てくる、日本の悪行の所には?」
古「あぁ、証言363ですね、あそこには当時の写真のページをリンクしました」
伊「いいですねぇ、GOODですよ」
古「南京大虐殺の、もっと酷い画像もあったのですが、控えました」
伊「その前の証言で、唄を歌うのがあったでしょう」
古「炭坑節をリンクしました」
 ・聞いて貰って
伊「なるほどー v(^_^)v」
古「あんまり重いのばかりでも、なんですから…」
 ・このあと各ディスクをお見せして
古「こんな感じですけど、いかがですか」
伊「(HPおよびネットも含めて)驚嘆しました」
伊「デジカメを買ったので、改めて取材旅行してきます、写真もたくさん載せていきましょう」
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古「ところで、ディスク寄贈のお金、大変じゃないんですか」
伊「このCDは、38年間の集大成で、私の最後のプロジェクト。
  CDを出したことで、古川さんのような方、
  また古川さんの呼びかけに応えてくれた方が出てきたように
  私は次代へつなぐ素材を遺せればと考えているので。
  惜しんでいません」

古「おや、もう暗くなってきましたよ」
伊「そうですねぇ、じゃそこいらで、ビールでも…」

■サイトのあゆみ
2006年5月 CD作品をベースとした「被爆者の声」ホームページを開設(日本語のみ)
2008年4月 上記英語字幕版を公開
2009年8月 カセット版「被爆を語る」を公開
2009年12月 ビデオ版「被爆を語る」の英語による証言を公開
2010年8月 ビデオ版「被爆を語る」の日本語による証言(104名分)を公開
2012年8月 ビデオ版「被爆を語る」の日本語による証言(142名分)を追加公開

■英語(字幕)版について
英語(字幕)版「voshn.com」については、私と同様に伊藤さんからCDの寄贈を受けた個人の方の発案でプロジェクトが始まりました。 発案者の方の構想では、『吹き替えで紹介したい』とのことだったのですが、実現の可能性と、伊藤さんの『肉声を大切にしたい』との想いもあり、字幕方式でのスタートとなりました。
翻訳者の募集は、ホームページと、伊藤さんがメディアに露出する機会を捉えて行いました。 2006年8月に翻訳スタートし、08年4月に全9ディスク公開となりました。 ご協力いただいた方は、18歳の学生さんから75歳の被爆者まで23名(年齢はいずれも翻訳時)。 米国在住の日本人の方もおられ、その方にはネイティブ・チェックを中心にお願いしました。

■他言語版について
伊藤さんの考えとしては、核兵器保有国の、かつ その言語を理解する人口の多い順で他言語(字幕)版を制作したい意向でした。 具体的には、中国語への翻訳が2008年夏にスタートしていました。 英語以外の言語となると、ボランティアを募る方式では現実味が薄いことから、伊藤さん個人の早稲田大学同窓会ルートを通じ、若い中国史研究者の方に有償で依頼されていました(伊藤さん亡きあとの現在も進行中)。
他の言語についても、ロシア語、フランス語版も実現したいと語っておられました。

■ビデオ版の公開について
2006年11月にビデオ収録を開始した伊藤さんですが、編集方針については当初“これ”といったものはなかった模様で『走りながら考える』といったところのようでした。 このあたりの心情は、クリエーターや記者の方ならおわかりになると思います。
方針が見えてきたのが、07年秋頃。 広島で英語でスピーチなさる被爆者に会われ、『英語証言による直接アピール。これだ!』とひらめかれたようです。 もちろん日本語による証言収録も継続するものの、発信の優先順位は英語によるものが先、と。 そのころ、伊藤さんから私にもらったメールをご紹介します。
映像の編集も自身でなさりたい意向だったのですが、それは結果的にかなわぬものとなりました。 後を受け編集を行ったのは、難波稔典さん(私と同時期に伊藤さんを知り、伊藤さんという人間にひかれた映像制作者)をチーフにしたNPO法人「被爆者の声」のメンバーです。
 ビデオ版の編集メンバー (いずれも、NPO法人 被爆者の声 のメンバーです)
 映像制作者 難波稔典(なんばとしのり) 1966年9月18日生まれ 東京都・新宿区
 カタログ制作者 佐藤 毅(さとうつよし) 1953年5月10日生まれ 東京都・練馬区
 コピーライター 古川義久(ふるかわよしひさ) 1954年10月29日生まれ 長崎県・長崎市
 編集者の写真はこちら(最下段)

■伊藤さんの考えていた「これから」
「夏のことば」を書き終えた2006年11月時点(ビデオ証言取材開始前・英語字幕版未公開時点)で伊藤さんの考えていたこれから(自著「夏のことば」巻末・あとがきに代えてより、PDFファイル)です。
さらに、08年夏、今後の計画も「未来形自分史」と題したメモを示しながら76歳までの計画を話してくださいました。

これからの計画・前半←前半 これからの計画・後半←後半



■「被爆者の声を記録する会」と「被爆者の声を世界に伝える会」
「被爆者の声を記録する会」は、1971年7月11日に伊藤さんが会長となり、広島・長崎の放送局の方と作ったグループ。 文字通り“記録する”ことを目的とした会です。 当初、広島エリアは広島在住のメンバーが担当する申し合わせだったらしいのですが、活動は活発とは言えず、『1年経ってもひとりの収録実績も上がらなかった』ので、伊藤さん自ら広島へ“移動”して収録するようになった、とのこと。
「被爆者の声を世界に伝える会」は、2008年6月1日に発足した会。 やはり伊藤さんが会長となり、私(古川)を事務局長に据えての発足でした(現メンバー、伊藤さんを含め38名)。 目的は、“被爆者の声を世界に伝える”こと。 サイトの宣伝活動をしてください、ということ。
「伝える会」発足に伴い、「記録する会」は、発展的解消の手はずでしたが、伊藤さん死亡時点では、解散宣言は出されておりません。 なお、両会に重複して加わっている方も、私の知る限り伊藤さん以外で1名いらっしゃいます。

■NPO法人 被爆者の声
伊藤さんの遺志を継いで、伊藤さんが遺された映像資産を編集・発表するには、やはり個人の資格で活動するより、法人格を得た方がいいだろうと考え、2009年11月5日、特定非営利活動法人被爆者の声を設立しました。 11月5日は伊藤さんの誕生日です。


これまでメディアに取り上げていただいた記事

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