語り手 | 女性 (1901年〈明治34年〉生まれ) | |||||
被爆地 | 長崎 | 被爆場所 | 長崎市桜馬場町・民家内(爆心より3.3km) | |||
被爆当時 | 主婦 44歳 | |||||
お話をうかがった年 | 1979年 | うかがった場所 | 長崎市 | 収録時間 | 1時間9分 | |
うかがった当時 | 78歳 | |||||
お話の概要 | 長崎県立高等女学校四年生だったひとり子・嘉代子は、8月9日朝、動員先の三菱重工業 長崎兵器製作所 給与課(城山国民学校に疎開中)に出かけたまま、ついに帰らなかった。 爆心地の廃墟をさがしもとめて三週間目、夫と『私』は娘の遺体にめぐりあう。幼い娘の命を護ってやることが出来なかったとの思いが、生涯の痛恨として『私』に残った。 追懐の一念をこめて城山小学校校庭に植えた数十本の桜は、春ごとに花吹雪を散らして、かわらぬ平和を訴えつづけている。 |
ブロック | 時間 | 書き起こし | 語り出し |
01 | 7:24 | 完了 | 娘、嘉代子は、1929年8月11日、長崎市で生まれました。一人子です。私は28歳でした。幼かった頃の |
02 | 7:27 | 完了 | 長崎師範附属小学校は、私の家のすぐ前にありました。娘の短い生涯で、最も幸せな6年間でした。 |
03 | 3:41 | 完了 | 42年、県立長崎高等女学校に入学。すでに戦争は、国民生活のすべてを覆っていました。 もう、 |
04 | 5:10 | 完了 | 1945年8月、嘉代子は県立高女4年生。動員先の三菱兵器製作所の一部が疎開した。城山国民学校へ通 |
05 | 4:09 | 完了 | 私が被爆したのは、爆心地からから3.3キロの自宅近く。金比羅山に遮られ、比較的被害が軽かった地 |
06 | 8:03 | 完了 | 10日朝、夫が帰宅。娘の消息は分かりません。 そして、それから、主人も、私と探しに行くわけ |
07 | 9:52 | 完了 | それからまたやっぱり、探さにゃいかんという気になりましてね、もう、あの、兵隊さんもおらんか |
08 | 2:51 | 完了 | 城山国民学校は、爆心地からおよそ500m。8月9日、16歳の誕生日まであと2日でした。私の城山通い |
09 | 4:11 | 完了 | 供養が済むと、私を呼ぶ声は聞こえなくなりました。しかし、娘への思いは募るばかりでした。 |
10 | 4:17 | 完了 | 被爆で壊滅した城山小学校が、元の場所で授業を再開したのは、被爆後3年目の春。学校へお願いして、 |
11 | 3:48 | 完了 | やがて桜は、春毎に見事な花を咲かせ、いつか嘉代子桜と呼ばれました。その後、動員学徒であった |
12 | 7:53 | 完了 | 1979年現在、私は78歳。夫とは15年前死別しました。娘が育ち、8月9日、娘が出かけていったこの家 |