語り手 | 男性 (1930年〈昭和5年〉生まれ) | |||||
被爆地 | 長崎 | 被爆場所 | 長崎市茂里町・三菱重工業 長崎兵器製作所 建屋内(爆心より1.3km) | |||
被爆当時 | 三菱兵器製作所茂里町工場 検査工 15歳 | |||||
お話をうかがった年 | 1979年 | うかがった場所 | 長崎市 | 収録時間 | 1時間11分 | |
うかがった当時 | 長崎県職員 48歳 | |||||
お話の概要 | 工場で勤務中被爆、『私』は脱出に際し、暗闇のなかで高い所から転落する。姉一家四人は爆心で全滅していた。 学校生活と公務員生活を通じて、健康の障害に苦しみぬいてきた『私』は、やがて『弱い自分こそ弱い人の役に立とう』と考え、志願して福祉行政の第一線に投じた。 苦しみの根源を、生きる意欲の源に転化させた『私』が、原子爆弾と人間との関係の、ふしぎなダイナミズムを語る。 |
ブロック | 時間 | 書き起こし | 語り出し |
01 | 10:59 | 完了 | 1945年8月、私は15歳の少年工。海軍の魚雷を製造する三菱兵器製作所茂里町工場の検査工として働 |
02 | 4:25 | 完了 | そいから、ただ一ついいことしたのは、ずーっと行ったら畑になったわけです。そいで畑のですねぇ、 |
03 | 2:41 | 完了 | ところが途中でですね、今でも、あ、今はありません。今は唐人館ってあります。あのぅ弁天橋のと |
04 | 2:22 | 完了 | この時、爆心地に住んでいた姉一家四人が全滅しました。私は腕に切り傷を負った程度で、目立った |
05 | 3:40 | 完了 | 師範学校はそのまま中退して、49年、新制の県立長崎西高等学校に編入学しました。 入ったとこ |
06 | 6:25 | 完了 | 52年、長崎県庁民政労働部(せわかみ)臨時雇いとして就職。10カ月後、正職員として採用され、私 |
07 | 3:16 | 完了 | この時、福祉事務所に4年間勤務。結婚して二人の娘が生まれました自分の健康障害と、被爆との関 |
08 | 7:09 | 完了 | 一時、福祉事務所から移籍した事務所で公務中事故に遭い、腰の故障はさらに重くなりました。福祉 |
09 | 4:20 | 完了 | 学窓生活、職業生活を通じて、長く続いた健康の障害が、私にとっては公務に打ち込む支えになりま |
10 | 5:15 | 完了 | その後も高血圧症や、ヘルニア手術が続きました。薄氷の上を踏むような思いで続けてきた勤務生活 |
11 | 6:48 | 完了 | 私が被爆体験を語るようになったのは、被爆後30年以上たった最近のことです。 もう私は、隠し |
12 | 3:23 | 完了 | 被爆者の本当の姿を人々に知ってほしい。私が被爆体験を書き残そうとしたのも、そんな気持ちから |
13 | 4:30 | 完了 | 1979年現在、私は49歳。長女は14歳、次女は12歳になりました。昨年の移動で、福祉事務所の現場を |
14 | 4:52 | 完了 | 恵まれぬ人々のために献身したいという願い、それは私が被爆者であること、あの日の体験に根ざし |