語り手 | 女性 (1915年〈大正4年〉生まれ) | |||||
被爆地 | 長崎 | 被爆場所 | 長崎市五島町・九州配電前路上(爆心より2.9km) | |||
被爆当時 | 主婦(配給所勤務) 30歳 | |||||
お話をうかがった年 | 1977年 | うかがった場所 | 福岡県 嘉穂郡 | 収録時間 | 1時間12分 | |
うかがった当時 | 62歳 | |||||
お話の概要 | 夫は応召、『私』は銃後に三児を守って配給所で働いた。 11日、爆心を縦断して、佐賀県の郷里まで百キロの道を歩く。 復員した夫は54年、炭鉱出水事故で死去、六児が残された。炭鉱下請けの作業員となって子供を育てる『私』に、被爆の後遺症が襲う。 のち、七児をかかえる寡夫と再婚、十三人の子の母親となって、家事・育児に明け暮れた。 ボタ山のかげで生きぬいたお母さんの物語りが、「被爆体験」の外縁部を明らかにする。 |
ブロック | 時間 | 書き起こし | 語り出し |
01 | 5:38 | 完了 | 私は1915年、佐賀県小城郡の農家で生まれました。長崎市でお手伝い奉公をした後、結婚。夫は熊本 |
02 | 4:15 | 完了 | 入り江を挟んだ対岸は三菱長崎造船所。来襲した米軍機がまず狙う軍事施設です。戦渦は私のすぐ身 |
03 | 5:53 | 完了 | とうとう疎開することに決め、3人の子供を佐賀の実家へ連れて行ったのが8月5日のことです。そこでも |
04 | 4:48 | 完了 | その夜から2日間、山の中に避難しました。徒歩、長崎を立ったのは11日夜。爆心地を縦断。野宿をし |
05 | 2:28 | 完了 | 実家はすでに兄の代になっていました。3人の子供を連れて長くいることもできず、敗戦の知らせを聞 |
06 | 4:02 | 完了 | 食料配給所に復職。その時、目の当たりにしたのは、敗戦日本のあからさまな姿です。 上陸してき |
07 | 2:14 | 完了 | 夫が復員してきたのが翌年のことです。3年間音信不通でした。 それで、姉のところの2階を借って |
08 | 4:40 | 完了 | 天草へ帰ると夫のマラリアも次第に良くなりました。夫は地元の炭坑に坑内大工として就職。さらに3人 |
09 | 5:43 | 完了 | この時私は39歳。長男が小学校6年生。その下の5人は女の子で、3人は小学校前でした。夫の葬儀が |
10 | 5:07 | 完了 | 11月。私は乳飲み子の2人だけ連れて福岡県の筑豊へ。長男と三女は長崎の兄と姉に、長女と次女は郷 |
11 | 3:20 | 完了 | この頃筑豊炭田は、もう全盛期を過ぎていましたが、私と私の子供達に暮らしの糧を与える程度の力 |
12 | 3:40 | 完了 | 長男は炭坑で働きながら、定時制の工業高校を卒業。神戸の会社に就職しましたが、この時難しい問題 |
13 | 4:13 | 完了 | お隣の娘さんには長男の後を追わせ、私は再婚して後を引き受けました。夫の子供が7人、私の子供 |
14 | 4:40 | 完了 | 再婚した夫は、毎日一番方、二番方と続けて働きました。私は子供の食事の世話に追われる毎日で |
15 | 2:20 | 完了 | 私が一番心を砕いたのは、子供達を分け隔てなく仲良く育てることでした。 やっぱりですね、我が子 |
16 | 3:42 | 完了 | 私が夢中で子供達を育てた10年余は、筑豊地方の炭坑が雪崩を打って閉山し、働き手、若者が次々 |
17 | 5:08 | 完了 | 子供達は、今県内に6人、県外に7人、孫は18人になりました。自分の務めを終えかけた私は、深い |