語り手 | 男性 (1906年〈明治39年〉生まれ) | |||||
被爆地 | 広島 | 被爆場所 | 8月8日 入市 | |||
被爆当時 | 日ノ出精機五日市工場 学徒勤労課長 39歳 | |||||
お話をうかがった年 | 1976年 | うかがった場所 | 福井県 金津町 | 収録時間 | 1時間22分 | |
うかがった当時 | 70歳 | |||||
お話の概要 | 7月1日 呉空襲で一児死去、自宅は焼失し、前半生をかけて築いた生活は瓦解した。 広島市郊外の軍需工場に勤務した『私』は、8月8日午前、広島に入市、以後爆心にかよって惨状をつぶさに目撃する。 21日、発症。9月2日、重篤症状に陥って死線をさまよった。 秋、福井県に帰郷、被爆後の生の表現を荒野の開拓に求め、原始人同様の生活を壮烈に生きた。 やがて被爆の後遺が襲う。 |
ブロック | 時間 | 書き起こし | 語り出し |
01 | 8:08 | 完了 | 私は1906年、福井県で生まれました。子供の頃、広島県呉市に移り、以来呉市で成人。長く呉服商 |
02 | 6:00 | 完了 | それから壕の中へ入って。ところがもうそれ以前に、壕の上の町なんかも、前の方なんかも、全部 |
03 | 2:10 | 完了 | ところが全部死んだかと思ったら、そうでない。やっぱり生きとる者がおって、中で『もう済んだぞ |
04 | 4:17 | 完了 | この空襲で当時1歳3カ月だった次男は窒息死。私の一家は生活の場所を失いました。妻と小学校4年 |
05 | 5:22 | 完了 | えー、広島の駅へ着きましても、もう建物は一切ありませんし。それからちょうど、饒津(にぎつ) |
06 | 7:00 | 完了 | これが広島の中心部から約8q離れていた私の部屋の状況です。8月9日、学徒の消息を尋ねて広島へ入 |
07 | 6:01 | 完了 | 15日、厳島神社へ必勝祈願に参詣。途上、敗戦を知りました。健康に異常が現れたのはそれから1週 |
08 | 3:26 | 完了 | けれどもやはり、身体の衰弱はもう、相変わらずだんだんだんだん深みへ落ちていくような気持ち |
09 | 2:14 | 完了 | そして、夜の夜中じゃったんですが、守衛長に伝えてくれと言うてから後、家内に、もう出たっ |
10 | 3:37 | 完了 | 戦後の生活を託すつもりだった呉市の工場は、9月17日の枕崎台風で再起不能の被害。アメリカ進駐 |
11 | 6:58 | 完了 | 翌46年4月、他の3所帯と一緒に、福井県金津町の山林に開拓の鍬を入れました。満40歳の時です。 最 |
12 | 3:58 | 完了 | 履くものもやはり、闇で売っとるのは、それは地下足袋一足でも長靴でもゴム長、やはり千円も出 |
13 | 3:34 | 完了 | 48年、このような生活の中で三男が生まれます。しかしそうやって築きかけた私たちの生活を自然 |
14 | 5:25 | 完了 | 入植後10年、開拓農家としての将来にようやく薄明かりが見えはじめた頃、私に健康の異変が現 |
15 | 3:59 | 完了 | 58年9月、原子爆弾の被爆に伴う低血圧症として厚生大臣の認定を受けましたが、秋の収穫期を迎え |
16 | 6:08 | 完了 | ようやく健康の回復を感じるようになったのは、最初の入院から4〜5年の後のことでした。この間、 |