語り手 | 男性 (1924年〈大正13年〉生まれ) | |||||
被爆地 | 広島 | 被爆場所 | 広島市内(路上を巡視中) | |||
被爆当時 | 陸軍少尉・船舶司令部所属 21歳 | |||||
お話をうかがった年 | 1975年 | うかがった場所 | 宮城県 亘理町 | 収録時間 | 1時間19分 | |
うかがった当時 | 50歳 | |||||
お話の概要 | 被爆後広島市内で救護活動と遺体片付け作業に従事した。 復員、帰郷、結婚 −− 50年4月発症。通院、入院、上京して通院、入院。治療10年ののち、『私』はベッドに寝たきりの15年を送っている。全身麻痺の『私』に残された人間らしい機能は、ものを言うことだけ。『私』に語ることができることは、被爆の惨禍と核兵器不再使用の訴えしかない。被爆を語ることだけが、『私』には、自分の人間らしさをとり返すてだてである。 原子爆弾と人間との関係の、極限を生きる。 |
ブロック | 時間 | 書き起こし | 語り出し |
01 | 7:40 | 完了 | 私は1924年、宮城県の農家で生まれました。10人兄弟の末っ子です。戦争の激化とともに、4人の兄 |
02 | 6:26 | 完了 | 隊に帰った後、救助活動の命令を受け、当日午後から被災者の救護、輸送作業に従事しました。 重 |
03 | 5:10 | 完了 | 広島滞在中は、軽い下痢をした程度で、9月半ばには復員して帰郷します。2人の兄が戦死していまし |
04 | 7:24 | 完了 | 昭和25年に結核になったら“死病”ですよね。まだその当時の観念としては死病ですよね。どうも |
05 | 7:50 | 完了 | この間、長女をもうけました。しかし病魔は深く私の肉体をとらえていました。 あのぅ、これ |
06 | 5:37 | 完了 | 被爆後15年目、私は35歳になっていました。以来、ベッドに寝たままの歳月が続くことになるとは、 |
07 | 7:34 | 完了 | 医者が代わってから、その医者は、最初交代した時に、確認するためにカルテ持ってきていろいろ診 |
08 | 6:31 | 完了 | 60年7月、退院。婿入り先の家庭に妻と一人娘を残し、兄の代に代わっていた実家に帰りました。以来、 |
09 | 7:19 | 完了 | 退院以来世話になっていた兄は亡くなり、実家は甥の代となりました。思いがけぬ歳月が寝たままの |
10 | 4:15 | 完了 | 美しい自然に囲まれた農村の一角にいて、四季の変化に触れることもなく、私の24時間は、ラジ |
11 | 3:18 | 完了 | 娘はいつの間にか24歳になりました。年に一度か二度、妻と一緒に訪れて来るのが、私たち親子の |
12 | 2:02 | 完了 | 広島の焼け跡で『生きていて良かった』と感じた私も、今この言葉を問い返されれば、思いは複雑 |
13 | 4:06 | 完了 | 1975年現在、私は51歳。病に捕らえられた年月が、すでに人生の半ばを超えました。全身麻痺の私は |
14 | 3:15 | 完了 | だから私は、やっぱりねえ今、社会に何ができるか。原爆の経験を生かすことができないものか。平 |