語り手 | 男性 (1902年〈明治35年〉生まれ) | |||||
被爆地 | 広島 | 被爆場所 | 広島市猫屋町・広島憲兵分隊 隊舎(爆心より0.6km) | |||
被爆当時 | 陸軍二等兵・中国憲兵隊司令部 広島憲兵分隊 補助憲兵 42歳 | |||||
お話をうかがった年 | 1974年 | うかがった場所 | 広島県 三次市 | 収録時間 | 1時間16分 | |
うかがった当時 | 72歳 | |||||
お話の概要 | 8月6日、爆心地より六百メートルの隊舎(私立光道国民学校校舎)内で被爆。駐屯していた憲兵75人、補助憲兵135人、特別機動隊350人、計560人中、生存者は7〜8人であった。 『私』は直後の爆心地を西へ逃げ、夕刻、己斐に脱出する。救護所での二週間を経て、20日過ぎ復員、9月1日に発症して死線を彷徨した。 きのこ雲直下のヒロシマの地獄を目のあたりに見た『私』は、核兵器をめぐる世界の現状を憂い、平和を祈願する。 |
ブロック | 時間 | 書き起こし | 語り出し |
01 | 5:29 | 完了 | 私は1902年、広島県双三郡三次町、現在の三次市で生まれました。広島市の北東約60km、中国山 |
02 | 3:22 | 完了 | 中国軍管区歩兵第一補充隊。広島の人々が二部隊と呼んでいた、旧歩兵十一連隊に入隊。まもなく |
03 | 3:09 | 完了 | 軍隊でさえこの有り様でしたから、一般市民の生活困窮はいっそう甚だしかったのです。 ほん |
04 | 3:42 | 完了 | 連日のように広島上空を通り過ぎてゆく米軍機。しかし、当時、西日本の全軍を統括する第二総軍司 |
05 | 4:28 | 完了 | 1945年8月5日、広島市基町の憲兵隊司令部留置場で看守として勤務。勤務明けの6日朝、猫屋町の憲兵 |
06 | 3:11 | 完了 | まぁ、その当時、橋のたもとは空襲やなんかの時に混雑してね、怪我人やなんかがよけいできるから、 |
07 | 5:38 | 完了 | そいから、声を掛けるやつがおるんですよ。私ら、まぁその、服はまぁ、暑い時じゃけぇ着ちゃおら |
08 | 2:43 | 完了 | 広島市の西の入口“己斐”にたどり着いたのが、当日夕刻。私はそれから丸二日間、山手の林の中に |
09 | 2:30 | 完了 | 15日の敗戦は大野町の救護所で迎えました。広島市中心部で治療活動を続けていた広島赤十字病院 |
10 | 5:33 | 完了 | 輸血いうたところが、どがんもなりゃせんやないか言うて。どがんもならんが輸血が一番ええがな、 |
11 | 3:19 | 完了 | 46年4月1日、警察官として復職。しかしそれ以来、健康の上で被爆の影響を感じてきました。 警 |
12 | 5:32 | 完了 | 51年、50歳で退職。64年、胃潰瘍で手術。その後も肝臓の障害、貧血、動脈硬化などの症状を経験 |
13 | 2:49 | 完了 | そいから今度、終戦以来いうもの、コロっと、180度の転回ですよ、コロっと変わってきたんですけぇ |
14 | 2:46 | 完了 | しかし、キノコ雲の真下で人類滅亡の最初の兆しを目の前に目撃した私は、この世がいかに移り変 |