カセット版「被爆を語る」(一覧)へ戻る
■ テープNO.8 南の島から
語り手 男性 (1923年〈大正12年〉生まれ) 
被爆地 長崎 被爆場所 長崎立神町・三菱重工業長崎造船所内(爆心より4.5km)
被爆当時 三菱長崎造船所 船殻工場 填隙工 22歳
お話をうかがった年 1974年 うかがった場所 沖縄市 収録時間 1時間15分
うかがった当時 51歳
お話の概要  三菱重工業長崎造船所構内で勤務中被爆した『私』は、翌日より約二週間、爆心地での遺体片付け作業に動員され、惨状をつぶさに見た。
 46年、沖縄に帰郷。三人の兄は戦死し、郷里は焦土と化していた。
 『私』は米軍占領下の基地作業員として、『戦果』の獲得に日を送る。
 のち製糖工場作業員として働くうち、次第に健康の障害を感じた。
 戦後オキナワに生きた日々を語ることを通じて、「被爆体験」の外縁部を暴く。

ブロック 時間 書き起こし  語り出し
01 6:15 完了 私は1923年、沖縄本島南部の糸満町で生まれました。7人兄弟の次男です。地元の小学校を卒業して郷
02 3:46 完了 当時、父は軍属として海南島に徴用中。兄と3人の弟は、軍人、軍属として出征中。母と、姉、妹が糸満
03 4:11 完了 1945年3月末、アメリカ軍が沖縄に上陸し、6月末には全島玉砕の知らせが届きます。肉親8人の生死は
04 6:57 完了 この時、長崎に原子爆弾を投下したB-29ボックスカーが、郷里沖縄の米軍飛行場に帰ったことなど、当
05 4:53 完了 全部は、やっぱり片付けきらんかったね。そらぁ下水に入ったり、白骨になってるともあるもんね。
06 3:47 完了 爆心地で、連日遺体収容作業に従事することが、自分の健康に障害を与える可能性があること。当時
07 4:01 完了 やがて、海南島に徴用されていた父が、私を頼って長崎に引き上げてきます。その年、秋、私は長崎
08 3:33 完了 46年。長崎県大村市からアメリカ軍の船に乗って沖縄に帰郷。中城湾の久場崎に上陸しました。7年
09 6:51 完了 激戦地のひとつであった郷里・糸満は、一面の廃墟となっていました。兄はクェゼリンで戦死。上の弟
10 6:00 完了 アメリカ軍の直接の支配下にあった沖縄では、米軍基地が最大でほとんど唯一の職場でした。私は農
11 5:29 完了 占領後の数年間、アメリカ政府は、はっきりした沖縄統治の方針を持っていなかったといわれていま
12 3:04 完了 アメリカ軍の作業というのはね、やらんでもいいような仕事ばっかりやってるよ。たとえば、こんな
13 4:27 完了 49年、中華人民共和国が成立。50年、朝鮮戦争。反共軍事力の出撃拠点として、沖縄基地の拡大と恒
14 3:57 完了 沖縄原水協の調査によって、沖縄県にも多数の被爆者がいることが発表されたのは、1963年のことで
15 3:29 完了 1974年現在、私は51歳。57年以来、コザ市、今の沖縄市に住み、妻が近くの市場で鮮魚店と天麩羅店
16 3:55 完了 住まいに近いアメリカ空軍・嘉手納基地は、ベトナム戦争最大の基地のひとつでした。軍用機の発着は