語り手 | 女性 (1911年〈明治44年〉生まれ) | |||||
被爆地 | 広島 | 被爆場所 | 広島市白島西中町・自宅屋内(爆心より1.8km) | |||
被爆当時 | 主婦 34歳 | |||||
お話をうかがった年 | 1973年 | うかがった場所 | 広島市 | 収録時間 | 1時間3分 | |
うかがった当時 | 62歳 | |||||
お話の概要 | 夫は建物疎開作業に動員されていて被爆死。長女は重傷。『私』は夫をたずねて広島市内・郊外の救護所を捜し歩いた。 17日、夫の遺骨を受領する。五人の子どもが遺された。 46年2月、五女を出産、『私』の胎内で被爆し、心身に障害を負った小頭症児であることがやがてわかった。 働き、六児を育てた『私』は、あとへのこすこの子への援護と、核兵器の不再使用を心から訴える。 |
ブロック | 時間 | 書き起こし | 語り出し |
01 | 5:39 | 完了 | 1945年、私は34歳。夫と5人の子供と一緒に広島市で暮らしていました。戦時中のことですから、食料 |
02 | 8:43 | 完了 | 当時、長女が14歳。その下に国民学校の学童が2人、学齢期前の子供が2人。二男三女、合わせて5人 |
03 | 7:22 | 完了 | この朝、長女は大火傷を負って待ち合わせの場所に帰ってきました。しかし夫の行方はわかりません。 |
04 | 5:56 | 完了 | 夫の兄は、中国・東北で戦病死。夫は被爆死。夫の弟は、帰国の途中遭難死。3人の妻が残りました。 |
05 | 9:22 | 完了 | かねて恐れていた通りに夫は亡くなり、残された子供が5人。私の苦しい戦後はこうして始まります。 |
06 | 5:28 | 完了 | 被爆の翌年1月、五女誕生。私の胎内で被爆した、もっとも若い被爆者の一人です。 ちょうど昭和21 |
07 | 5:09 | 完了 | そうこうするうちにこの人が、まぁ5歳か6歳、幼稚園行かさなければいけないが、どうしたらいいもの |
08 | 3:56 | 完了 | わたしは、やがて五女が、原爆小頭症と呼ばれる障害を持った子供であることを知りました。妊娠 |
09 | 7:01 | 完了 | 1973年現在、私は62歳。五女は27歳になりました。初老の時期を迎えた私にとって、何よりの気が |
10 | 3:42 | 完了 | 私がこの子を守ってやれないようになった後、この子は人々の中で、どんな歳月を送ることができ |