カセット版「被爆を語る」(一覧)へ戻る
■ テープNO.6 ビキニに被災して
語り手 男性(見崎吉男〈みさきよしお〉さん) (1925年〈大正14年〉生まれ) 
被爆地 ビキニ 被爆場所 ビキニ環礁沖・第五福竜丸ブリッジ(爆心より159km)
被爆当時 第五福竜丸 漁労長 28歳
お話をうかがった年 1973年 うかがった場所 静岡県・焼津市 収録時間 1時間59分
うかがった当時 食料品店経営 47歳
お話の概要  マグロ延縄漁船の若い漁労長として南海に向かった『私』は、1954年3月1日払暁、マーシャル群島ビキニ環礁北東海上で操業中、アメリカの水爆実験に遭遇する。
 14日焼津に帰港、15日乗組員二名を東大病院へ。17日のこる乗組員全員も入院、一年二か月の治療生活のなかで久保山愛吉さんが亡くなった。 青春をかけた、『私』の船主・漁労長への夢は瓦解した。
 第五福竜丸 漁労長が、原水爆禁止運動の原点となった、ビキニ水爆実験被災事件の実相を語る。

ブロック 時間 書き起こし  語り出し
01 5:01 完了 1954年3月1日朝、西部太平洋のマーシャル群島ビキニ環礁で行われた、アメリカの水爆実験によって
02 4:38 完了 まぁ最後の航海ですねぇ、1月の22日に焼津を出て、それから3月1日に、被爆された。その間の航海とか
03 4:58 完了 見崎さんとしては、費用程度は取り返して帰りたいという。  そうだね。そういうふうに機関長
04 5:39 完了 この2月の28日の夜から、3月1日にかけての出来事ですが、これは、時間を追って、ひとつ伺いたい
05 5:14 完了 その時、朝日ような光が見えた。  それが3時50分というふうに記録してあるだけんねぇ、私の方で
06 5:05 完了 それでは見崎さんが、一番恐れたのは、米軍の。  そうですねぇ、これは明らかにアメリカだって
07 8:19 完了 まず、感じられた恐怖というのは、そういう目撃者を撃沈。  そうですね。まず第一番目はそれで
08 7:26 完了 あの、第五福竜の全速いうのは、どのくらいの。  いやぁ遅いですよ。10ノットぐらい。  あの
09 5:28 完了 それから、焼津に帰って来られるまでの、2週間ですね、どんな異変が、ありましたか。  その日の
10 9:54 完了 あのぅ、灰は一応取り除こうと、されたわけですか。  えぇそうですね。灰は、操業中、盛んに
11 2:15 完了 あのぅ、見崎さん、上陸されてからまず誰に会おうとされたんですか。  私は、どうしても船主にね
12 6:12 完了 その中のお二人は、結局東大病院に、送られることになって…。  そうですね、船から派遣したで
13 5:20 完了 あの、結局海上保安部への報告というのは、船主さんとの話し合いで、やろうということになった。
14 4:18 完了 しかし、考えられる限りの一番早い方法で、結局、○○正確に判断できる人のところまで、行った
15 7:13 完了 客観的にみれば、そういう影響下に巻き込まれた、全く不可抗力、かつ、被害者ですね。それでもや
16 8:02 完了 約1年何カ月か、皆さん、東大病院に、東京第一病院に、入院なさって、手当を受けられ、○○たった
17 5:23 完了 その間アメリカ側からは、かなり不愉快に感じてられただろう、ようなですね、反響もあったようで
18 7:54 完了 あの、見崎さん退院されてから、もう船には乗ろうとなさらなかったわけですか。  えぇ、○○乗
19 4:53 完了 結局のところ、生活の再建というのは、ご自分たち個人的にこれを苦労・努力、そういうもので、解決
20 4:11 完了 まもなく20年になろうとしているわけですね、○○○○年、時間、時間経った現在、事件を思い返され