カセット版「被爆を語る」(一覧)へ戻る
■ テープNO.4 われらみなアブラハムの子孫
語り手 女性 (1910年〈明治43年〉生まれ) 
被爆地 広島 被爆場所 広島市中広町・自宅前(爆心より1.3km)
被爆当時 主婦 35歳
お話をうかがった年 1973年 うかがった場所 広島市 収録時間 1時間31分
うかがった当時 63歳
お話の概要  18歳、韓国の郷里をあとに日本へ。広島で結婚、七児を生む。43年、夫は徴用され「満州」へ。差別と食糧難のなか、『私』はこどもたちにたべさせる野の草を求めて広島の郊外をさまよう。44年、一児が栄養失調死。45年、被爆で三児が死去。二児が行方不明。『私』は半身重火傷。長男だけが生きのこった。
 のちキリスト教に入信、生涯を通じる日本人の抑圧と差別を許した。
 侵略と戦争の時代を生きぬいた、ひとりの韓国婦人の身生打鈴のものがたり。

ブロック 時間 書き起こし  語り出し
01 5:29 完了 私は1910年、朝鮮半島東南部、忠清南道(チュウセイナンドウ)の農村で生まれました。両親のほか
02 3:22 完了 私が日本人を初めて見たのは故郷の村でのことです。  私の方じゃ、12歳の頃ですか、13歳頃ですか
03 3:09 完了 私が生まれたのは、日本が韓国を併合した年です。1919年には3.1独立運動、いわゆる万歳事件が起こ
04 3:42 完了 日本政府の土地政策によって、耕作地を失った朝鮮の農民は100万人に上ったということです。17歳の
05 4:28 完了 それから10年後、同じ国の出身者であった夫と私は、日本人の名前を名乗り、広島市の中広町に住ん
06 3:11 完了 徴兵、徴用、勤労動員。天皇の臣民としてすべてに同じ義務を負わせた日本人は、私たちに決して親切
07 5:38 完了 10歳を過ぎた次女に赤子の三男を負わせ、遠く郊外や島々へヨモギを摘みに出かけるのが、当時私
08 2:43 完了 44年、4歳だった長女が、栄養失調死。45年、広島にも空襲が始まり、6人の子の身の上にもひしひし
09 2:30 完了 広島では4月から学童疎開が始まっていました。私は子供たちを手放すのをためらったのです。  2人
10 5:33 完了 45年8月6日、長女は17歳。楠町にある工場に学徒動員中でした。この朝、日の丸の鉢巻きをして出か
11 3:19 完了 私は、顔・首・胸など、体の前の部分に大火傷、全身に打撲傷。畑の中の一軒家だった自宅は全壊・全焼
12 5:32 完了 放射能の恐ろしさなど知らぬまま、被爆直後の2〜3日、自宅焼け跡の壕で帰らぬ長女と次女を待ちま
13 2:49 完了 数えきれぬ被災者の中で、私はもっとも重い負傷者の1人でした。  私が一番ひどかったんですよ。
14 2:46 完了 8月中旬過ぎ、広島市の尾長町に住んでいた夫の弟が、私たち3人を見つけて半壊した自宅に運ん
15 1:31 完了 収容された矢賀国民学校救護所は、重軽傷者でいっぱい、そして遺体の山でした。  ほとんど死
16 3:19 完了 私たちはそこでやっと、多少治療らしい治療をしてもらうことができたのです。被爆から10日以上経
17 4:09 完了 最後まで残っていた三女が亡くなったのは、矢賀救護所です。7歳の子に治療の手はあまりに遅すぎま
18 7:20 完了 7人の子の内、1人が栄養失調死、2人が行方不明、3人が被爆死。重傷を負っていた私は、目の前で死
19 2:21 完了 夫の弟を始め、当時多くの同胞が故国へ帰りました。私たちが広島に残ったのは、帰らぬ2人の娘を
20 2:32 完了 私がキリスト教に入信したのは数年後のことです。  あるおばあさんが、信仰を持っているおば
21 3:21 完了 ヨハネ伝3章16節。それ神は一人子を賜うほどに世を愛しタマエル・すべて・・・・この言葉を自分に
22 4:48 完了 48年、ケロイドの整形手術。49年、被爆後最初の出産。50年、朝鮮戦争。郷里にいたただ一人の弟が
23 2:12 完了 73年現在、私は被爆者の医療認定を受け一人暮らし。長男は広島で、戦後生まれの3人の子は、遠い
24 2:31 完了 私が生まれたのは日韓合併の年でした。韓国と日本の関係の、半世紀にわたる歴史が、私の人生にも
25 3:18 完了 私はいずれ、6人の子供の骨が埋もれている、この広島の土の上で生涯を閉じるでしょう。戦争、原子