語り手 | 女性 (1908年〈明治41年〉生まれ) | |||||
被爆地 | 広島 | 被爆場所 | 広島市薬研堀・自宅屋内(爆心より1.2km) | |||
被爆当時 | 主婦 37歳 | |||||
お話をうかがった年 | 1972年 | うかがった場所 | 広島市 | 収録時間 | 1時間6分 | |
うかがった当時 | 64歳 | |||||
お話の概要 | 長女(10歳)は登校したまま行方不明。当日、比治山でめぐりあった重傷の夫も、救援のトラックにのせられて宇品方面に向かったまま行方不明となった。『私』は次女(5歳)を連れ、広島市内・郊外の救護所に夫と長女の姿を求めてたずね歩いた。 29日、次女死去。『私』は独りとなった。 家族、家財、貯金、健康 −− 生きるてだてのすべてを『私』から奪いつくしたものに、人間の尊厳をかけて問う。 |
ブロック | 時間 | 書き起こし | 語り出し |
01 | 5:42 | 完了 | 私は1908年、広島市で生まれ、長く広島市の中心部で暮らしていました。自営業の夫、二人の娘との |
02 | 2:42 | 完了 | 1945年8月、私は37歳、夫は50歳、長女満10歳、次女5歳でした。6日朝、当時警防団の仕事で忙しか |
03 | 5:18 | 完了 | 8時15分、私は爆心地から1.2kmの自宅台所にいました。 七輪に火を熾して、大豆煎ろう思う、支度 |
04 | 2:43 | 完了 | 鶴見橋を渡って比治山へ。そこで大怪我をした夫と次女に会いました。外出先から帰った夫が、自宅 |
05 | 5:43 | 完了 | 6日は比治山で野宿、7日は郊外の農家で一泊。8日から次女を連れ、宇品、似島、大竹、大野浦など |
06 | 5:16 | 完了 | 結局、夫は金輪島で亡くなったらしいことがわかっただけで、今に行方不明です。長女は後に、 |
07 | 3:02 | 完了 | 次女・睦子、8月29日死去。満5歳6カ月でした。9月1日、私は山口県柳井市の妹を頼って避難。そこで |
08 | 4:26 | 完了 | 家族、住まい、家財道具の一切を失って、私はひとりぼっちになりました。10月、広島へ帰り、妹、 |
09 | 2:52 | 完了 | 戦前から戦時中にかけて、まさかの時に備えコツコツ貯めていた貯金・保険の通帳もすべて焼け、手に |
10 | 6:02 | 完了 | 生きるため、私はヤミ市場に出ます。 姉さんあんた野菜を売りんさい、ていう。そいじゃ売って |
11 | 2:28 | 完了 | ヤミ市場での生活はその後、3年間続きました。 皆誰もやりたい者はないんです。やりたいことは |
12 | 5:48 | 完了 | 再婚した夫も、爆心地で被爆した人でした。その夫とも10年足らずで死別。以来、内職、市の区画 |
13 | 3:32 | 完了 | 1972年現在、私は64歳。一人暮らしも10年を超えました。縫い針を包装する内職の収入が、月三千円 |
14 | 2:17 | 完了 | 私の思いは被爆で亡くした子供たちに、帰って行かないわけに行きません。 主人は、まぁ、今 |
15 | 4:25 | 完了 | 虐げられて生きてきた私は、テレビで見るベトナム戦争のニュースでも、弱い人々の身の上に思いを |
16 | 3:30 | 完了 | 私の話を聞いてくださる皆さんに、私が声を大にして言いたいこと、それを聞いてください。 若 |