カセット版「被爆を語る」(一覧)へ戻る
■ テープNO.2 炎の記憶
語り手 女性 (1928年〈昭和3年〉生まれ) 
被爆地 広島 被爆場所 8月6日午前 入市被爆
被爆当時 女子挺身隊員・旭製作所地御前工場 軍需課勤務 17 歳
お話をうかがった年 1972年 うかがった場所 東京都 収録時間 1時間16分
うかがった当時 主婦 44歳
お話の概要  広島の軍需工場で働いていた『私』は、被爆直後の爆心地に駆けつけ、重傷の妹(9歳)とめぐりあう。妹は7日午前、路上で息をひきとった。8日、自宅焼け跡付近で母の遺体を見つけ、妹の遺体とともに焼く。大阪の親戚方に避難、放射能障害があらわれ一時重篤。その間に、広島では陸軍に応召中被爆した父が亡くなっていた。『私』はひとりぼっちとなった。
 溢れでる痛恨の思いで、炎の日と、独り生きたその後の日々を語る。

ブロック 時間 書き起こし  語り出し
01 4:28 完了 1945年8月。私は17歳の女子挺身隊員でした。前の年、女学校を卒業。広島市の西の郊外にある軍需工場で
02 6:42 完了 午前8時15分、地御前〈じごぜん〉村の工場で被爆。  私は事務でしたからね、軍需課っていう事務でした
03 8:43 完了 午前9時前、私は広島市の西の入り口に当たる己斐への道を急いでいました。  そいで、すぐ電車に乗って
04 5:49 完了 で、まあそうなると母は仕方がない、思って。妹はどうしただろうかと思いましてね。妹は西高等女学校
05 9:26 完了 そこを出てね、どっかほかにないんですかって言ったらね、江田島がね、江田島の陸軍病院が、重傷の
06 4:37 完了 妹、千代子、8月7日午前10時15分死去。享年9歳でした。  死体はね、全部2中、第2中学校の校庭へ運ぶ
07 1:39 完了 恵まれた家庭で大事に育てられた17歳の私には、判断に余る出来事の連続でした。この3日間を私はほとん
08 4:15 完了 9日、広島市郊外の親類の家で、思いがけず父と巡り会いました。爆心地に近い部隊で被爆。重傷を負った
09 4:13 完了 10日、父は再び部隊に去りました。数日後、私は、母方の叔母を頼って大阪に向かいました。健康に異常
10 8:39 完了 広島の親類から父の危篤、死去を知らせる電報や手紙が届いていた頃、私は大阪で生死の境にありました
11 4:47 完了 私はひとりぼっちになりました。翌年5月、大阪の叔母の家を出て一人広島で下宿。広島市役所に勤務。
12 3:37 完了 その後、3人の男の子に恵まれました。理解ある夫の庇護の下で幸せな家庭生活ですが、被爆の傷が癒える
13 8:04 完了 63年。夫の転勤に伴って東京へ転居。私は父が亡くなったときの年齢を超えました。しかし、身近な人々