カセット版「被爆を語る」(一覧)へ戻る
■ テープNO.1 兵士のその後
語り手 男性 (1925年〈大正14年〉生まれ) 
被爆地 長崎 被爆場所 長崎市中ノ島・陣地砲側(爆心より2.0km)
被爆当時 陸軍二等兵・高射砲百三十四連隊 第一中隊 中ノ島小隊所属 20歳
お話をうかがった年 1971年 うかがった場所 東京都 収録時間 1時間54分
うかがった当時 飲料工場作業員 46歳
お話の概要  二十歳の兵士として被爆、重火傷。治療一カ月の後、佐世保市郊外に帰郷した。
 短い平和・民主化の時代にはじめられた『私』の青春は、逆コース・再軍備への道を歩む時代のなかで逼塞〈ひっそく〉せられて行く。銀行員、米軍基地勤務、港湾作業員などを転々、東京・新宿のドヤ街に流れつく。
 流浪の人生の末、『私』に人間的回生の転機を与えたのは、被爆者運動との出会いであった。
 原子爆弾と人間との関係の、ふしぎなダイナミズムを語る。

ブロック 時間 書き起こし  語り出し
01 7:10 完了 私は1925年、長崎県佐世保市で生まれました。小学校l年生の時、父が亡くなり、私は母と一緒に姉の嫁ぎ
02 7:13 完了 45年8月9日、私が被爆したのは、爆心からおよそ2kmの地点。中ノ島小隊の陣地、高射砲の傍らです。20
03 4:55 完了 この時、私が受けたのは、熱線による右顔面の重火傷、重いヤケドです。およそ1時間後、出島方面から駆
04 4:40 完了 南山手、鍋冠山(なべかんむりやま)の下にあったその兵舎で、私は被爆直後の10日間を夢うつつのうちに
05 5:54 完了 火傷の腫れが少しずつ退いて、多少ひとごこちがついたのは、被爆後およそ10日ほど経ってからのこと
06 5:05 完了 最初、30人くらいは居たと思われる負傷者は、その時、10人以内に減っていました。
07 7:49 完了 道ノ尾駅から列車に乗車。  あのまずねぇ、駅、列車を待ってたわけなんですね。そうするとね、なんだか
08 6:52 完了 9月中旬、佐賀陸軍病院・熊の川分院を退院。月末まで佐賀市北部の山間にある温泉で療養しました。
09 3:24 完了 そのとき、佐世保市・相浦で私を出迎えてくれたのは、母と姉婿の一家でした。やがて下の姉も大阪から
10 3:30 完了 アメリカ海軍の佐世保進駐が9月21日。11月末、帝国海軍佐世保鎮守府は、57年の歴史を閉じ、軍港佐
11 10:04 完了 以前勤めていた地元銀行の相浦支店に復職したのは、被爆・敗戦の翌年2月のことです。その年1月、軍
12 2:33 完了 49年、佐世保市中心部の本店に配置転換。形は栄転でしたが、上役の厳しい監視の下におかれ、預金
13 9:16 完了 50年6月、朝鮮戦争が勃発。引き続く空前の特需ブーム。商業、造船、貿易の平和的な港として再生
14 5:23 完了 54年3月1日、ビキニ被災事件。日本の外務大臣は、『水爆実験を阻むべきではない』と、国会で答弁。
15 5:55 完了 59年。基地を辞めた退職金で家族の借金を払い、母、姉、姉の子を残してひとり家を出ました。私の流浪
16 1:09 完了 時代は日本経済の高度成長期。私はすでに40歳になっていました。  約6年か7年、いろんな苦しみを味
17 2:51 完了 手帳を取ったきっかけは、ラジオで被爆者の問題を聞いたことでした。何気なく取得した被爆者手帳が、
18 6:01 完了 被爆してから22年目、手帳の制度が作られてから10年目のことです。東京都の被爆者組織、東友会の活
19 2:46 完了 被爆者どうしの温かい連帯感。被爆者運動の意味に対する確信。それは私がこれまでの生活で掴むこ
20 9:15 完了 71年現在、私は46歳。東京・多摩地区のアパートに一人住んで、外国系飲料工場の作業員として働いて