移動 ▽次 HOME【ナレーション】
この時期から始まった戦後と呼ばれる年月は、被爆者、特に直接被爆者、中でも近
距離の直接被爆者が、
放射能の後遺症状によって時間をかけ、
緩慢〈に殺されていった歳月。健康、家庭、生活の全てを破壊された被爆者が、政治、行政の無関心と、人々の偏見と差別のもとで
苦〈しんで生きた歳月です。
しかし被爆者は生き抜き、健康、家庭、生活を再建する道を通じて、様々な社会活動に参加する道を通じて、自分たちが人間の歴史の中で他の人々が果たすことのできない役割を担った存在であることに気が付き、自らを単なる「原子爆弾
被害者〈」から「原子爆弾
否定者〈」へ変えていったダイナミックな歳月です。
これらの年月を語ったお話の録音は【被爆を語る】のタイトルで、全国940箇所余りの、平和資料館、国公私立図書館、大学・高校図書館などへ
寄贈〈してあります。併せてお聞き取りくださることをお願い致します。
この作品では、最後に、お話をうかがった時、被爆者が明かした胸のうち【ヒロシマの言葉・ナガサキの言葉】を聞いていただきます。
移動 ▽次 △前| 証言345 | ことば | 絶対的にね、人道的に許せませんね | 当時35歳 |
何とも言えない患者を診〈まして、
気の毒な若い人が亡くなっていくのをねぇ。
忍びられん(忍びえない)ですなー。許せないって事ですな。
絶対に許せんですなー。
実際を目の前に見て、治療〈して、なんするもの(看取る者)にとってはね、
絶対的にね、人道的に許せませんね。
伊藤:『(原爆を)二度と許せないではないのではない、
一度目を許せないということですね?』。
そういうことです。そういうことです。いけませんなー。
移動 ▽次 △前| 証言346 | ことば | それさえなかったら子供も主人も死にゃへん | 当時32歳 |
もういや。
憎〈い。
憎〈い、とにかく
憎〈い。
憎〈いいうことしか一言に言えんね。
だって今からね、どうように
(どれほど)伸びていくもんやらわからん
芽を止めてしもうて。
永久に芽を止めたんじゃけん
(止めたのだから)。
はぐいよ
(はがゆい・くやしい)。
憎〈いよ。
言うほうが悪いかは知らんけど、
非国民〈じゃ言われるかも知らんけどほんま、いやよ。
原爆もいや。戦争も何にもいや。
それさえなかったら子供も主人も死にゃへん。
『つまらん戦争するからじゃ』言いたい。
移動 ▽次 △前| 証言347 | ことば | もう一回使えば全世界の人間が死滅 | 当時15歳 |
若輩〈の頃にですね、こういう悲惨〈な思い、
本当にもう悲惨〈としか言いようが無いですよね。
こういう体験をしたっていうこと自体が。
だからこういうことを二度とね、我々の子供の時代でもね、
繰り返したくない受けさせたくないという気持ちでいっぱいですね。
戦争自体がですね、まあすでに、
ベトナムやなんだかんだやってますけど、
もしなんかの間違いでこれが核戦争になれば
おそらく広島、長崎の段じゃないと思うんです。
現在のこの核の威力というものから推定するとですね。
もっともっと悲惨〈なものになるんじゃないかと思うんですね。
これはねもう絶対に禁止とかなんとか
生ぬるいそんなもんじゃないですわ。
使ったら必ずその使った人間が滅びる、
もう一回使えばおそらくこれは全世界の人間が死滅しますよ。
地球の破壊ですね。
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ベトナム戦争 左記のトップページはこちら→ ウィキペディア
移動 ▽次 △前原爆というやつはね、
その地域におるものを全部虐殺するわけだ。
非戦闘員だよね。昔の戦争だったら侍〈だけがするわけだ。
同じ侍〈でも今度は大将同士の一騎打ちみたいなことで
勝敗を決する、決めるというようなやり方がある。
ところが、今の原爆のやつは女子供、赤ん坊、
ありとあらゆるそこの地域におった生命を
全部焼き殺してしまうということは、
とても残酷〈な戦争の仕方と思いますよ。
そういう兵器はね、これはやっぱりやめるのが本当じゃないか。
戦争でもね、ちゃんと戦時〈国際公法〈、平時〈国際公法〈、
国同士の戦争でも、ちゃんと戦争それ自体に
やっぱりひとつのルールがあるんですよ。
今の原爆なんていうのは戦争のルールに全然もう合わない、ね。
その手段はもう選ばないという、
これはやっぱり人類として、人間としてね、
これは許すことのできない武器だと私は思うんですよ。
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戦時国際公法(ハーグ陸戦条約) 左記のトップページはこちら→ ウィキペディア
移動 ▽次 △前| 証言349 | ことば | もう骨の底から感じているわけですね | 当時26歳 |
原爆の恐ろしさというものをですね、
非常に観念的に捉えてる人が多いわけですね。
実際に原爆の真下にあった人はですね、
これはもうこういうものが再びこの世の中に使われてはいけない
ということは、もう骨の底から感じているわけですね。
そういう連中は、あまりその表面だった運動は
今はむしろしてないですけども。
ああいう方法(核兵器)というものは、
これはどういうふうにしても人間が使用することの
できないことをしたわけですから、
もう少し本当のことがわかった人の原爆禁止運動になってもらいたい。
移動 ▽次 △前| 証言350 | ことば | 原子爆弾で仇討なんて毛頭ない | 当時53歳 |
たとえ許されたにしても、
原子爆弾持っていって仇〈討ちしようなんていう考えは
毛頭ないんですが、それほど実は残酷〈なもので、
これはどういう人間に対してだって、
やはり人間が人間に加える加害としては、
あれほどその残酷〈なものはないんじゃないか。
ことにああいうもの(核兵器)を持って脅かし合ったり、
あるいは、ああいうものの傘の中に入っておりゃ安全だといったような
そういうその気持ちを持つことは、
お互いにこれは根絶しなけりゃならんもんだ。
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核の傘 左記のトップページはこちら→ はてな
移動 ▽次 △前| 証言351 | ことば | 反対するのは被爆者自体の声ですよ | 当時26歳 |
核積んだ船が日本へ来とるじゃないですか。 そりゃぁ、事前協議があったかなんだか いって、うまい事言いよるけれどもな、 実際にわしは来とる思いますよ。
そんな危険なもの、二度とわしらが、 二度とこういうことさせとうないいう物(核兵器)を 持ってきとるわけでしょ。 それを反対するのは、当然でしょうが 社会党でも共産党でもなんでもないですよ。 被爆者自体の声ですよ、これは。
実際体験した者がこういうことはさせとうないから、 私はそれを反対するわけですよ。 共産党や社会党なんにもありゃしません。 |
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原潜寄港 左記のトップページはこちら→ Nagasaki Peace Committee
移動 ▽次 △前『自分の国守らにゃならん』いうのは、 口当たりのええ、耳あたりのええ言葉なんですけど 自分の国を守る言うてから、守れば、二百万も三百万人もの 死傷者が出ますですからね、このことを思うと、 国を守らん方がええです。
占領したいとこへ占領さしてから(占領させてから)、 だまって応答した方が、かえって国民のためになるんじゃないかと。 それは、自衛隊の軍人さんなんかは仕方がないでしょうけどね。 後方で死ぬ人ですね、赤ん坊から年寄りね、女の人、 こういう(ような)人のことを考えると 戦争してから自分の国を守る必要はないと思います。 国を守る守ると言うてられる人は、 その死傷者のことは考えんのと思いますがね。 |
移動 ▽次 △前| 証言353 | ことば | 躊躇なく占領されることを選びます | 当時28歳 |
本当にこういう惨〈たらしいことが 二度とあっていいんだろうかと。 国家間でいろんな事ございましても、 もちろん当事の為政者〈が最大限に、100パーセント以上に 外交折衝〈して平和を保つということは、 もちろんやらなくてはなりませんけど。
それがどうしても容〈れられないという場合には、 躊躇なく占領されることを選びます。戦争はいやだ。 |
移動 ▽次 △前| 証言354 | ことば | 泣くのは誰でもない、みな我々 | 当時37歳 |
二度と戦争はしてはなりませんわい。
絶対に日本全国民がね、戦争にはね、
立ち上がって反対してもろうてね、
そういうように巻き込まれんように、
これだけは私は、ほうじゃけえ、若い人に言うておきたいんですよね。
どういうことがあっても戦争というものは、決して利益になるんじゃない。
それは利益になるのは産業界のああいう一握りの人が、
ええだけのもので、後は絶対にええ事はないんですから。
ほじゃから泣くのは誰でもない、みな我々がね、
泣いてこにゃならんのじゃから。
どういうことがあっても戦争へ巻き込まれるようなことしては…、
二度と…再び、戦争だけはしてもらわんように。
政府がどのように言うたけんいうても政府に負けたらいけん。
その時にね、負けてはいけない。
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戦争特需 左記のトップページはこちら→ アメリカの戦争拡大と日本の有事法制に反対する署名運動
移動 ▽次 △前| 証言355 | ことば | 戦争ハ、コノ世デハ止メタラドウデショウカ | 当時35歳 |
トニカク戦争ハセンデ、止メテクレタ方ガ一番イイデスネ。
ホイデマア人間ノ殺シ合イコハ
止メテクダサルヨウニソレハオ願イシ、
原爆ハ二度モ使コウテハイケンコトデス。
戦争イウモノハ、コレデコノ世デハ止メタラドウデショウカト思イマス。
止メタホウガ一番イインジャナイカト思ウンデスネ。
ソウデモヤッパリ国民ハヤッテイカレルンジャナイデスカ。
ダカラ人間殺シアイコハネ、殺シタリスルノハ全然ネ、
本当ニ止メテクダサッタホウガ。オ願イデスネ。
移動 ▽次 △前| 証言356 | ことば | 守りというのは、ぜひ必要である | 当時50歳 |
戦争は悲惨〈であるからね、そういうものは避〈けなくちゃいけない。 それは後世の人にもしっかりひとつ言い聞かせたい。 ところがその避〈ける方法は何であるかと、 我々は自分が軍人(陸軍中将)であったから言うわけじゃないけど、 そうでなくたって我々は言える。 戦争というのは避けにゃいかんから、 我々はしっかりとした兵器を造るということに努力をしたんで。
守りがなければですね、それは相手が付け込むんだからね、 だから、それに対して『手強いぞ』というだけのものは 持っとらにゃいかん。そのための守りというのは、ぜひ必要である。 |
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専守防衛 左記のトップページはこちら→ ウィキペディア
移動 ▽次 △前| 証言357 | ことば | あっちゃならんですけど絶対無いとはねえ | 当時18歳 |
私は二人の子供を、二人とも自衛隊に一応入れました。 徴兵制度〈とか何とかということも、 一応あってもいいんじゃないかなと思いますね。 戦争はあっちゃならんですけどね。 何の下地もなくて直ぐ (に戦う)言うわけにいかないでしょ。 絶対無いとはねえ。 あってはならんことですけどね。 |
移動 ▽次 △前| 証言358 | ことば | 原爆にあっておるからこそね | 当時21歳 |
『平和、平和』言うて、平和はね誰も人間もう十人が十人 唱〈えん人は一人もおらん思うね。 だけど私はね、原爆にあっておるからこそね、 原爆は使用してはならないけど、用意だけはして欲しい思うね。
番犬の恐ろしいのがひとつおればね、あそこの家行きゃ犬がおるけん、 あれが噛みつくかわからん言えばね、そこを通りのいて人は行くですよ。
そやけど何にも無防備でね、 何にもしてなければ馬鹿にしてしまうですよ、国は小いし。 私らは原爆にあって、いい経験じゃないですか。 もう日本には原爆でも持って欲しいと思う。 でもね使用はしては絶対ならんよね。ならんけど。 |
移動 ▽次 △前| 証言359 | ことば | あまりにも政府や世間の目が冷たいので | 当時15歳 |
最初はね、そういうことは二度とあってはいけないという 気持ちだったんですよ。 そう思うのが当然なのかも分〈かりません。 でもあんまりにも政府だとか世間の目が冷たいのでね、 自分たちがもう原爆を受けて、そういう悩みにならないと、 みんなは分〈かってもらえないんだっていう、 そういう気持ちのほうが大きいんですよ。
そういうことからして『原爆をもう一回落としてもらったほうがいい、 みんな被爆者になればいいんだ』っていう、 そういう気持ちが大きいんですもんね。 そうなること以外に何か解決が無い、 分〈かってもらえるあれ(方法)が無いような気がするんですよね。 |
移動 ▽次 △前| 証言360 | ことば | 空恐ろしいことを考えたりする | 当時17歳 |
まあ、あちこちで戦いがありますね。 そこへ原子爆弾を落としたらいいような気がするんですよ。 それともうひとつはね、日本自体が原爆を持って 相手国に落としたらいいんじゃないかって思うんですね。 そしたら、はじめて原爆を受けた苦痛が分〈かるだろうし、 注目がそこにいくだろうし。
そしてやっぱりこういうことは 小国〈だけがグズグズ言ってても取り上げられないんだろうから、 大国がそんな目に遭えばそれだけの処置をとるだろうし、 初めて世界中が大きな目を開くんじゃないか。
なんかね、『日本が(原子爆弾を)持てばいいのに』というふうな、 まあ空恐ろしいことを考えたりするんですね。 |
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世界の核兵器国・核疑惑国一覧 左記のトップページはこちら→ 核絶対否定のHP
核保有国 左記のトップページはこちら→ 暇人のため息
移動 ▽次 △前私が専門が物理なもんですから、
原子爆弾そのものに内容的には普通の人に比べて、
比較的詳しく知ってる立場でありますし、
それに私の場合には直接、感覚的にもそれを経験したわけなんで、
両方の意味で原子爆弾というものが現れたことの意味ですね、
これはまあ非常に考えさせられましたですね。
人間の社会の動きというものは、
必ずしも理性的には動かないものなんですね。
非常に奇妙〈な政治の自身としての運動があったり、
また兵器を造りますと兵器自身の物としての
ロジック(論理)と運動があるんですね。
そういうことの怖さを感じますと、
『人間がああいうことをやってて遂に自滅に至るんだ』ということに
気付く前に、そういう自滅的な戦争が起こらないで、
間に合うだろうかどうだろうかですね。
多少楽観的に過ぎるかもしれないけど、
尚且〈つフィフティーフィフティー(半々)位が生き残れるかどうかという点、
楽観的に見てもフィフティフィフティー位にしか考えられない。
移動 ▽次 △前| 証言362 | ことば | アホらしくて事になりませんわ | 当時44歳 |
『愚かな者よ 汝の名は人間なり』言いたくなりますね。 ハハ〜ほんと人間くらい馬鹿はおらん。 ああやって原子爆弾だなんだて、 牛や馬がしたんじゃないですからね。 人間がやったんですからね。
ハハハ〜わし、ちょっと唄作ったんですがね。 (ちょっとかしてごらん) 『原子爆弾、水爆とヨイヨイ 頭痛めて造るけど 地獄行きのお薬と 狐や狸が笑ってる サノヨイヨイ』ていう唄アハハ〜私が作った、 どうもアホらしくて、アホらしくて事になりませんわ。 ハハハ〜 (哄笑) |
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炭坑節(元歌、midi演奏) 左記のトップページはこちら→ 音楽研究室
移動 ▽次 △前| 証言363 | ことば | 詫びて詫びれるはずがない | 当時25歳 |
そりゃあ、ただ迷惑をかけたというだけじゃないけん。 あの長い間にね、シナの国民を痛めつけて痛めつけてね、 どれだけ荒らしまわったかわかりません、これはね、 なんぼ詫びても詫びきれるものじゃなかろうと私は思いますが。 私はずうっと、 武漢〈・ 三鎮〈まで行ったんですがね。 それから 南京〈なんかの状態なんかを見ますとね、 『チャンコロ (中国人に対する蔑称)が』ということでね、 人間のうちに入れとらんのですけんのー。 軍刀の試し切りをやってみたり。 それからまた作戦に行って 日本の兵隊はもう悪の限りを尽くしとるんじゃけんなあ。 女の子を、こう、引っ張って来ちゃあ、もうおもちゃにするんじゃのー。 あれで 罰〈があたらんいうのはね、ないですよ、 これは人間わざじゃないですけんのー、無茶やるんですけん。 まあ全く 支那〈人はべっぴんが多いですのぅ。 作戦に行っちゃ女狩りをして、帰って手柄話というのは何かいうたら 女の話ばかりしよるんですからのー。 いよいよありゃいけん。 今、日中国交回復言うてね、詫びて詫びれるはずがない。 私という 業〈の深い人間はとてもじゃないその 尋常〈一様ではね、 死なれるような問題じゃなかったと。 親に対しても不孝の数々を重ねとりますし、 戦争中も 支那〈・ 満州〈方面を 駆〈けり回ってね、悪の限りをしたものが 今生きておられるということはね、 何かそのまだ 償〈いとしてやり残した仕事があるんじゃなかろうかと。 原爆や恐ろしい目にもたくさん遭いましたが、 そういうことが私の経験として良かったと。 原爆…、原爆病で 苦〈しんどっても生活を正しさえすれば、 病気というものは即座に治るもんだということをね、 今は私はもう商売みたいにそれを言いよるわけですね。 一心にね、やりさえしたらね、 誰でも健康になれるということが 分〈かってきたですね。 これは大変な教えがあるもんだと。 |
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移動 ▽次 △前| 証言364 | ことば | バカな戦争したもんですよね、実際 | 当時42・37歳 |
夫婦で証言
戦争が悪い思わなんじゃから、するときには。
12月8日
真珠湾攻撃〈した
(と聞いた時は)『やったー』言うたんじゃけん。
日本もぐずぐずした外交しとって『やったー、ようもやってくれた』思うた。
なにが段々段々、こう日が経って行って、
『やれやれ、戦争いうものは、ばかげたこと
するもんじゃないね』と今は話しよる。
とにかく戦争いうものは、美しいもののように思とったよね。
とにかくまあどんなことがあっても、
戦争は「イヤですね」二度とするものじゃないですね。
バカな戦争したもんですよね、実際ね。
今の年をとった体験者はですね、
小さい、今の戦争知らん者に話してやって、
その当時のことをね、戦争がどういうもんである、
原爆がどういうふうなもんであるということを孫とかね、
知らん者に話してやるいうことが必要じゃないか思いますね。
話して聞かす、自分の体験をね。
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真珠湾攻撃(ハワイ海戦) 左記のトップページはこちら→ 太平洋戦争 Remember!! "THE PACIFIC WAR"
移動 ▽次 △前| 証言365 | ことば | 日本に空襲が入ってきて、初めて | 当時33歳 |
支那〈事変とか
満州〈事変とかね、
遠いとこでやって勝った勝ったでもう、いつも祝勝ムードでね、
提灯〈行列やったり、旗行列やったりしていましたから。
ああ今日もどこが
轟沈〈した、こっちから占領したって言うてね、
勝つことしかまた教えてくれないもんだからね。
いつも勝った、勝ったって喜んでいたんですよ。
私たちはこっちで国防婦人会とかなんとかやってですね、
いつも勝った、勝ったでやっていたんですからね。
戦争というものを身近に感じてないですからね。
大東亜戦争〈になって、日本に
空襲〈が入ってきて
初めて戦争の恐ろしさを
分〈かったんですね。
だからもう二度と戦争というものやって欲しくないんです。
伊藤:『ベトナムでも遠いとこですけど』。
遠いところですけど、自分たちが身近に感じて、今やられているからね、
あっちのことも自分たちの身近な
親戚〈がやられてるみたいですよ。
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日中戦争(支那事変) 左記のトップページはこちら→ ウィキペディア
満州事変 左記のトップページはこちら→ ウィキペディア
移動 ▽次 △前| 証言366 | ことば | 過ちは繰り返しませぬから | 当時25歳 |
(原爆)慰霊碑(広島平和都市記念碑)の 『過ちは繰り返しませぬから』 ということに対して、色々批判も出とりますがね、 私はやはりもう一歩大きく考えて、 あれが正しいんじゃないかと。
正しいから戦争はやっていいというもんでは 決してなかろうと思うんですよ。 (大義)名分がたてば、戦争はやっていいもんかといったら 決してそうではなかろうと思うんですよね。 だからそこらに立ち至って考えれば、やはり我々も含めて 全世界の者が、全てが、今後過ちはせんようにせにゃいかん いうふうに私は受け取っておりますし、そうでなければ碑の、 碑文が死んでしまうんじゃないか。 |
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原爆慰霊碑(写真と解説) 左記のトップページはこちら→ 広島県北部発信
移動 ▽次 △前| 証言367 | ことば | 私たちは、多勢の若者を殺しました | 当時42歳 |
私たちは、たいへん多勢の若者を殺しましたわね、戦地〈で。 だから絶対に広島の地を離れまい。 どこへ行って暮らしてもいいんですけどね、 もう家も無ければ何も無いんですからね。 そうなんですけども、どうしても広島は 子供たちも主人も亡くなった土地だから自分は離れない。
今でもねあそこ行って、慰霊碑に私がお参りします時にね、 『また来ましたよ』って、そしてあの碑文をね、胸の中で唱〈えます。 『本当にもう過ちは繰り返しません』って私は思いますね。 伊藤:『過ちの中に、ご自分自身が、その一部分として含まれる という意識を思ってらっしゃるんでしょうか?』。 『そうです。切実に感じます。』 |
移動 ▽次 △前ああいう 惨〈い死に方しとりましたからね。 例えば、あの黒 焦〈げの死体の中に自分の子がおったとしたらね、 よう見つけんような、全くその 勘〈の鈍い親じゃから、 申し 訳〈がないと思って、まあせめて残っとる子供を 大事に育ててやらにゃ思うてね。 今でもね、自分の子供が死ぬのが気が付かないほどね、 分〈からんような、親じゃから、申し 訳〈がない思うんですけどね。 ほんまにあれが一人じゃったらね、私は家なんか全部捨ててしもうてね、 巡礼〈になってもええから探しに行きたい思うたんですよ。 そやけどね、後の子を育てにゃなりませんしね。 |
移動 ▽次 △前| 証言369 | 直後の情景 | 二十五年経ちましたけど、 | 当時34歳 |
二人は火の下で、四つの女の子と十二(歳)の長男は 声がしてて、救い出せませんしね。 下敷きでもう火が回って焼けましたんですね。 二十五年経ちましたけど、こうやってお話ししますと 本当に今のことのような気がしましてね。 『原爆忌 母呼ぶ声の 耳になほ』 『逆縁の 墓参の道の 冬菜畑』 『薫風や 吾原子野に 佇ち尽くす』 『幾仏と 問はる悲しみ 広島忌』 『広島の 懐古の冬の 海凪ぎて』 『追憶の 秋潮満ち来 被爆の地』 『句のありて 生き得し月日 広島忌』 すみこです。 |
移動 ▽次 △前| 証言370 | ことば | 人が悪いんじゃない、みな我が悪い | 当時56歳 |
いよいよ、苦労しました。ほんと、あらゆる苦労しました。 ええー、してみにゃわからん。 蒔いた種子が悪かったのぉ、と他には今日び思とりません。 私が蒔いた種子が悪かった。 ええ種子を蒔きゃあ良かったのにのー。
まあ、私というものは何の種子まきが悪かったか、 自分の種子まきが良かったらこんなことはないのに。 この世で人に悪うしたとは思わぁでも。 前の世に悪うしとったんだろう。 こりゃあね、どうしても蒔いた種子は生えますけのー。
早い人はこの世でも生える。今度、遅い人は火鉢の縁を回るように、 七生〈が間、回ってくると、坊さんによう聞かしてもらいました。
二へん(二回)聞かしてもろうた時に、子供の無いのも我が蒔いた種子、 貧乏するのも我が蒔いた種子、 何から何までがみな聞かしてもろうてみましゃあ。 人が悪いんじゃない、みな我が悪い。 人が悪い思うたらあてが違いますで。 |
移動 ▽次 △前| 証言371 | ことば | 起こるとすれば「神の摂理」 | 当時39歳 |
私たちやっぱり カトリック信者っていうのは、 もう現世界で起こるすべてのことは、神の計画であり、 また神自身がなされることだということを信じていますからね。 人が実際に手を下しても、まず神っていうものを考えますのでね。 私の受け取り方はまずもう普段からやっぱり信仰を厚く持って、 真面目に生活していた人はそれほど不幸であるとは思わないんですね。 原子爆弾で 苦〈しんだから、神様がいじめているとか、 あるいは不幸にしたとか、ホントの信仰を持ってる人は そういうことは絶対に思わないでしょうと思うんですね。 私自身がそうですから。 まあ、この後においてそういう核戦争があるとすれば 「神の意志」だと受け取りますね。 起こるとすれば「神の 摂理〈」だと思いますね。 |
移動 ▽次 △前| 証言372 | ことば | 試練を耐え忍んでいくことによって | 当時48歳 |
私ども カトリックというものは三百年の間もですね、 いろんな弾圧を受けながらも、やはりほんと神様というものを 本当に心から認めておったればこそ、地下に潜ったり、 そしてずっとその信仰を守り続け、その間、神父さまがおるじゃなし、 何の教えも聞くじゃなかったけど、 その「 魂〈から 魂〈に受け継がれたその神様の愛」というものは ずっと続いておっただろうと思うんですよね。 そして耐え 忍〈んで、どうやらこう普通の暮らしができるようになった時に またこうして大きな試練を受けたということ、 しかもそれがまた私たちの 浦上〈にまた下されたと言うこと、 これは私はね、やっぱり大きなお恵みを神様がくださった。 そうした私達が大きな試練というかお恵みというか、 それを受けてそれを耐え 忍〈んでいくことによって、 世界の平和がほんとに達成されるとなれば、 ほんとに死んだ方たちも「 以〈って 瞑〈すべし」と 申しましょうか、本当に天国でね、『ああ、よかった』と お思いになってくださっているんだろうと思うんですよね。 信仰者の気持ちとしては、そういうところでございますよ。 |
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移動 ▽次 △前| 証言373 | ことば | 浦上の信者を目覚めさせなくちゃ | 当時36歳 |
神様がですね、よりにもよってですね、 この信仰篤〈い浦上〈の土地にですね、原爆を落とされたと、 これは米軍がこれをやったということは、 これもやっぱり神様のその心じゃなかったかと。
昔の信仰の深さ、信仰に基づいた生活、これがはたしてその信者が そのまま受け継いだ生活様式、あるいは信仰なりを、 そのまま受け継いだままの状態であったかと、 そこを考えてみるとですね、 これは神様のひとつの試練じゃないかと。 浦上〈の信者を目覚めさせなくちゃできない(いけない)という 神様の心じゃなかったのかなあと。 |
移動 ▽次 △前| 証言374 | ことば | 加害者の罪まで自分が一身に背負い込んだような | 当時19歳 |
被爆者にはみんな、多かれ少なかれ
みんな被爆と体験を隠しておきたいと(いう思いがある)。
それは現実的に結婚に差支〈えるとか、就職に差支〈えるとか
そういった問題からもくることはありますけどね。
それともまた別に悲惨〈な目にあったということでですね、
結局人間は万物の霊長〈だとか、それから文化とか、文明とか
色々美しいことを知ってたけど、結局ああいう惨〈たらしいものを
人間が作り出して、そしてそれを人間に対して使うということでですね、
そういうものが、文化とかいうものは
いっさい信じられなくなったんですね、私は。
人に話しても分〈かってもらえないような体験を通じて来てるわけでしょう。
だから非常に孤独な気持ちで、今まで親しくしてた友達とも
結局本当に心の通い合う話はできないわけなんですね。
原爆を落としたのはアメリカなんであって、
我々は被害者〈なんですけどね。
ところがその加害者の罪まで自分が一身に背負〈い込んだような。
移動 ▽次 △前| 証言375 | 8月6日 直後 | 影響受けた書物だったんですが… | 当時17歳 |
出ようとしたときに、足の太もものところを柱が、
上から落ちてきた柱が押さえてまして、その上へ、
ずーっと重なってたもんですから、下が出ないわけですね、足が。
それで『助けてくれーっ』て怒鳴ってましたら、はるか向こうのほうから
妹が『お兄ちゃん、お兄ちゃん』言うて捜してるわけです。
そうしてるうちにだんだん妹が上から
『お兄ちゃん、もう回りが火が出だした』て言うたと(言ったんです)。
私が下敷きになってもがいてる時にね、ちょうど目の前にいっぱい、
本箱にあった本が散らばってたわけです。
当時私、武者小路〈実篤〈の『人生論』というのが岩波新書にありますよ。
あれを中学の4年生の頃かなんかに読んで、ちょっと感激しましてね。
ちょっと影響受けた書物だったんです、当時の。
ところが岩波新書の武者小路〈さんの『人生論』なんていうのがね、
目の前にあるわけです。
目の前にあってね、しかし私が生きるために
何にも役に立たんわけでしょ。
本だ、書物読むだ、なんだ言ってて、
そのことは私自身が非常に大切だと思ってたんやけども、
私が生きる時にね、いったい何の役に立つんやろうか。
ニヒルなんていうたらちょっとええカッコするようですけどもね、
なんかそんなものがねー。
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移動 ▽次 △前| 証言376 | ことば | 生きていてよかったとは… | 当時18歳 |
生きていてよかったのか、死んでいてよかったのか、
私はどうしていいんだろうかということを感じたこともあります。
その生きていてよかったとは私はですね、
まあ何といっていいのか、感慨無量です。
移動 ▽次 △前| 証言377 | ことば | 犬でもいいから元気な身体 | 当時20歳 |
生きていてよかったなあ、
いう(思いは)、そんなにないね、私。
あの、早く言えばね、「わが青春に悔いなし」というように、
悔いがない、いうことはないもん、私は。いつもこの世に。
『今度生まれ変わった時は健康な身体になりたい』それしかないもの。
だから私はそんなに生きてよかったとはひとつも思ってない。
ほんと、この間も話したんですよ、『今度生まれ変わるときは、
生まれてくる時は犬でもいいから元気な身体に生まれてきたい』
て言ったんです。
(そしたら)お母さんが、『犬じゃったらね、飼い主が悪かったら
どんな境遇になるかもわからない』て言われたんですけど。
私はね、浮浪みたいなかっても(浮浪者みたいであっても)
いいから健康な身体に生まれたい、犬でもいいから、私。
だから生きていてよかったとは思わない。
移動 ▽次 △前| 証言378 | ことば | 馬鹿なことせんでよかったって、今は思います | 当時14歳 |
ほんと生きとって何の楽しみも無いっていうような、 その気持ちはもういつごろ忘れたかは 分〈からないんですね。 おそらく近頃じゃないでしょうかね。 もう自殺しかけた時死んどったらもう何にも、 この世の中のことも何にも 分〈からずにね。 ほんとねぇ、『生きとってよかったって、 馬鹿なことせんでよかったって』今は思います。 この カトリックの方でも自殺ということはもう許せないんですね。 でもやっぱり 苦〈しい時は考えないですもんね、そんなところまでは。 自分が 苦〈しい時はほんと死んだ方がましということが先にたちますね。 |
移動 ▽次 △前自分は自分なりの仕事をしてきたと、 この三十年間に、弱い体にムチ打ってですね。 いくばっか(幾ばくか)はですね、 学界に何かをしたと(何かの役に立てた)。
これが亡くなった子供始めですね、広島・長崎でお亡くなりになった 何十万の方々へのお供養〈だろうと思うんですね。
そういう供養〈の精神、あの仏教で「代受苦〈」という言葉がありますね。 「代わって苦を受ける」と。 もうあの方々が僕に代わって「代受苦〈」の精神で 死んでいかれたとすれば、 生き残った僕は「代受苦〈」の精神でですね 『何かを人類に残さなきゃいかん』と そういう気持ちで生きてきましたね、僕は。 |
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移動 ▽次 △前| 証言380 | ことば | きみたち、今の日本を見てみよ | 当時34歳 |
動けなくて火が迫って来ると。
結局、生きながら火葬された生徒も居ったと。
そして、私の名を呼んだ生徒も居ったと。
どうして自分だけですね、生き残ったのか、と。
あの時、あの場でなぜ死ななかったのだろうかと。
あの世に行ったら、まず生徒に謝りたいと思います。
少しは再会の楽しみもありますね。
ですから、私は教え子の墓参りをしたことがありますけれども、
その時に、相手はお墓で声は出しませんけれどもね、
お話をしたことがあるんですよ。
きみたちと、我々とは、文ん字通り命を的に働いて来たと。
今は平和だと世間の人は言うと。
けれども、きみたち、今の日本を見てみよと。
あの温泉マークとホテルと、ボーリングとパチンコ屋とね、
スポーツカーとね、あんな物のために俺たちは死んだんだろうか、と。
怪我〈をしたんだろうか、と。
我々はそんなことのために命を的に戦ったんじゃなかったはずです。
移動 ▽次 △前| 証言381 | 8月17日 | やれ原子力を平和に使うだとか、 | 当時42歳 |
そして(8月の)17日の朝になったら急に、むくみが出ます、嘔吐〈をする。
急激に悪くなってそれで、
『お父さま、わたしもうダメのようだから、
きっと、きっと仇〈を取って』と言って息を引き取った。
私はその後、だらしがなくて仇〈を、今日取れない。
けれどもあの一発の原子爆弾によって、やれ平和がもたらされたんだ、
みんなは尊い平和の犠牲者だ、という言葉を聞く度に、
釈然〈としない気持ちが私にあって、故人には気の毒で、
今日に至るまで、毎朝詫びをしたりしていって…。
ですから、原爆の悲惨〈さっていうのは語り尽くせないですが、
私個人の気持ちとしては、世界中から原子爆弾に知識のある奴は、
皆死んじまえばいいと、こういうように。
やれ原子力を平和に使うだとか、いろいろうまいことを言ってますけど、
よっぽどこんなにない時代の方が豊かな生活だったんですよ。
原子力なんていうのが日本に、世界中にない時代の方がですね。
遙〈かに平和でみんなの…
移動 ▽次 △前| 証言382 | ことば | 被爆の実相、我々が知らせなー | 当時33歳 |
核兵器てものはこんな恐ろしいものですよと、
これ使こうちゃいけませんよということを、
我々は運動していって、皆さんこれを理解してくだされば、
これで仇〈も取れたんじゃないですか。
我々の気持ちが分〈かってもらえれば。
分〈かってもらえん間はまだ仇〈は取れてない、と。
こういう風に変わってきた。
戦争でもって仇〈を取るというのは言語道断〈。
これはもうとんでもないことなんですね。
これに気がついた訳〈ですから、平和というもので仇〈を取らにゃいかん。
何とかして被爆の実相〈、我々が知らせなー、
誰も知らせる者はおらんですからね。
移動 ▽次 △前| 証言383 | ことば | 私の生き汚れた身体、血が、ねえ | 当時12歳 |
私も結婚して10年になりますけれど、
まだ将来のことに対してやはり不安がありますので、
子供を作らないように努力しなければならないと思っております。
まあ父も、年老いた父が居りますけれども。
それに孫を早く見せてやりたいなとも思うんですけれども、
もしかして万が一、奇形児でも出てきた時には…
本当に…、と思いましてね。
それを考えると不安ですから、調節しているんですけど。
妻には申し訳〈ないと思います、それはねー。
まあ、被爆者の方でもそのまま正常な子供をお産なさって、
まともな身体で生まれて来ている方がいるのを聞きますけれども、
もしかしてそういう風な、私の生き汚れた身体、血が、ねえ、
子孫に残すのも考えものだなと思う…
移動 ▽次 △前| 証言384 | ことば | 結局は過去の語り草になって終わっちゃう | 当時6歳 |
被爆者自身も、自分の娘が適齢期になると、『結婚問題に響く』、
『触れてくれるな』と逃げ回る。いやがる。
僕に言わせりゃ『なんでお前、逃げるんだ』。こう問いたいですよ。
『お前なんか悪いことしたのかい』と聞いてみたいんですね。
『なにもしてないじゃないか、お前は』って。
アメリカの奴が勝手に落としやがってね、そんなひどい目にあわされて
『なんでお前逃げるんだ』。
反対に向かって、噛みついてから、
腸〈でも引きずり出してやるのが本当じゃねえか。そんな思いをしたのに。
それを逃げて、仕方がないって諦〈めちゃう。
こら僕はもう本当に腹立たしいな、こういう考え方っていうのは。
前進一つもないですよ。反対に後退になっちゃう。
だから、この問題は後退してしまったらダメですよ、もう。
絶対前進して行かなくちゃ。
そういう問題提起はどんどん突っ込んでいかなくちゃね、
ますます忘れられて、
結局は過去の語り草になって終わっちゃうんですよ。
終〈いには童話みたいになっちゃいますよ。
そういうことがあったんだそうなって。
あったんだそうなで済まされる問題じゃないですよ。
僕らの子供もいるんだから白黒ハッキリさせなくちゃいけないですよ。
移動 ▽次 △前| 証言385 | ことば | 原水爆は許さないという運動を続ける | 当時16歳 |
夫婦とも被爆者ですから。彼女が身籠〈もった時に、
はたして五体満足な子供が産まれるだろうかと、
それがいちばん心配だった。
おかげで五体満足に生まれたんですけれど、8カ月の早産児で、
小学校の時は、もう病太郎でどうにもなりませんでしたけど。
中学校でもそうだったし、高等学校に入って
ようやく身体が当たり前になってですね。
東京で結婚して、2人、男の子をもって…、小学校の。
もうすぐ中学校に入りますけど。
次男坊は、こんど5年生になるんですかね。だから本当、親子、孫、3代。
原水爆禁止の運動続けにゃいかんと。
3代にわたってですね、孫にも言い聞かせておりますけれど、
原水禁世界大会にも我々の孫を連れてね、
息子は東京から参加してくれるんですよ。
私たちはこれから先ずっと親子、孫、3代にわたって、
原水爆は許さないという運動を続けるつもりでおります。はい。
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移動 ▽次 △前| 証言386 | ことば | 経験した者はその声を残して知らせる | 当時26歳 |
ひどかったですねー。
もう本当、戦争はいやですねー。
その為にも、やっぱり経験した者はその声を残して、
後々の人にもずっと伝えて行くということは、
日本人だけでなくって世界中の人に、
やはり知らせるということは必要じゃないでしょうかねー。
そう思います。
移動 ▽次 △前| 証言387 | ことば | 広島、長崎の体験が、いちばん強い抑止力 | 当時35歳 |
広島、長崎はね、人間に原爆使った最初であり、実験だと思うんですね。
この実験の結果の恐ろしさはですね、私は世界の人たちにとって、
原爆をそういう戦争の手段として使うことの恐ろしさをね、
戒〈める大きな教訓になっていると思うんです。
その意味においては、誠に、広島、長崎の人たちはね、
大きな犠牲を払ってはおりますけどね、
人類に、こんな物は使っちゃいけないんだというね、
非常に強い教訓を与えたと思いますね。
その後、どこもよう使っておりませんもの。
これは単に、一方が使えば他も使って大変なことになる
というようなものでなくってね、人間にこれを使うべきもんじゃないんだと。
そしてこれを使ったらね世界中の人が、
道徳的な非難をその国に向けて行くんじゃないかと思いますね。
広島と長崎の体験が、
いちばん強い抑止力になっているんじゃないかと思います。
移動 ▽次 △前| 証言388 | ことば | これを最後の犠牲者にするために | 当時15歳 |
私たちが地球上で受けた最初の犠牲者で、
これを最後の犠牲者にするために、
私が生かされたのはその運動をして、
この世からそういう戦争の犠牲というようなものをなくすために、
私は生かされて、いるんじゃないかと。
非常に大きな望みではございますけれども、
それがまた、心の支えになりましてね。
生きてる限りはやっぱり、我々と同様な苦〈しみを味あわないような
世界を作って行きたいというのが、
本当の被爆者の声であると私は思うわけなんですね。
移動 ▽次 △前| 証言389 | ことば | 誰かやってくれるだろうではいけないんですよ | 当時15歳 |
原水爆の禁止ということですね。
これだけはやはり被爆者から叫〈んでいかなければですね、
誰が叫〈んでくれるか、と。いろいろあらゆる団体が
平和問題とかなんとかに取り組んでいらっしゃいます。
やはり先頭になるのは被爆者でなければいけないということですね。
原爆を受けた被爆者として、そして亡くなった被爆者の同志に対しても
その責任があるんじゃないかということを考えるわけですよね。
誰かやってくれるだろうではいけないんですよ。やはり…
移動 ▽次 △前| 証言390 | ことば | 被爆者の場合、事実を言うんだから、 | 当時18歳 |
あたし、字を書いても下手くそだし、
ものを喋〈らしてもろくなことも言えない。
しかし人間というものは、なんていうかな、
うそを言ったり、言葉をこしらえて言おうとすれば、
努力するわけですよね。
だから、下手なものは、なおおかしなこと言っちゃう、
ということになるんだけど。
私の場合、また被爆者の場合、事実を言うんだから、
みんなが想像もつかない事実。それを言うだけのことなんだから、
学術的には博士が偉くて、病院に行ったら医師が偉くて、
そういう一つの道はあるけれども、人生に対する悲惨〈ということ、
それから、しあわせを願うということには、
被爆者以上に表現のできる者は、
絶対にいないという確信があるわけです。
だから、確信がある以上は、やはり、その運動に、
運動っていうか、それに立ち向かわなくっちゃ意味がない、と。
移動 ▽次 △前| 証言391 | ことば | 核兵器は、いつかは使われる | 当時26歳 |
我々被爆者問題は世間の片隅に
忘れられて行くんじゃないかと思うんですよ。
でも私が言いたいのは、必ずそのまた、
核兵器というのはいつかは使われる、
と私は思ってるんです。
いつかということは、結局原水禁運動がね、
敗れたときに必ず使われると私は…
移動 ▽次 △前| 証言392 | ことば | もう一度落ちれば分かってくれるけど | 当時34歳 |
自分は「だるい」です。
身体の状態も悪く、のべつ風邪も引きやすい…。
だるいけれどもやるんですよ。
なぜか言うたら、自分が苦〈しい、自分が苦〈しいけど、
もう一度原爆落ちればみんなも分〈かってくれるけど、
それがあったらお終〈いなんですよ。
本当に苦〈しければ、人がそうあっちゃいけないと思うんですね。
だから、原爆というもので悩んだら、
本当にこれが二度と落ちちゃいけないんだと。
だからそれを訴えるのは自分たち以外にないんだ。
学者も、全ての偉い先生たちもそれはやらない。
真剣にやったら出来るんですよ。真剣にやらないから出来ない。
真剣にやる者は被爆者以外にないんじゃないですか…。
移動 ▽次 △前| 証言393 | ことば | 私の話が役に立つか分からんけれども | 当時35歳 |
あのいっぺんの爆風〈で崩〈れてしまった。
もう一家全滅した家も沢山〈あるんですよ。
知ってるんですよ。誰も残っていない。死んだ人はさぞ辛〈かろう。
もう、わけも分〈からずに爆風〈で吹き飛ばされて死んでしまった人。
熱線で焼け死んでしまった人。
この人たちの御霊〈を報いるためには、生き残っている私たちが、
被爆の実相〈をみんなに伝えながら、
再びこの戦争を繰り返してはならんと。
私の生きとるうちに出来〈るか出来〈んか分〈からんけれども…。
私のこの話が役に立つか分〈からんけれども…、ひとつ役立ててください、
そして戦争反対に協力してください。
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移動 △前| 証言394 | ことば | 我々たち35万人しかいない | 当時28歳 |
我々たちが忘れたら、
この世界から原爆というものはなくされないぞと。
受けた我々たちが、先駆けになって原水爆禁止運動を唱〈えてこそ、
本当の我々たちの使命であると。
だから、それは、絶対忘れたいという人は、全くその人は誤っている。
だから忘れることは出来ない。
全世界の被爆の証人としては、我々たち35万人しかいないと。
だから、ダイヤモンドちゅうけれども、
ダイヤモンド以上の平和に対する価値は我々たちしか持たない。
ヒロシマ ナガサキ 私たちは忘れない
この作品は、広島、長崎の被爆者と、
被爆者と同じ時代に生きた者の協力によって2006年に制作されました。