トラックで、顕微鏡積みましてね、
そいで衛生兵えいせいへいや看護婦さん連れて行って、
そしてあちこちの防空壕ぼうくうごうの中に
まだたくさんの患者さん残っているわけですね。
そういう人、集まってきますから、白血球数えてあげて、
そいで重そうな人は連れて行くと…。
ま、そういうことやってましたけどね。

わたしが一番印象に残ってますのはね、あのぉ、浦上うらかみ天主堂てんしゅどうですね。
あそこへ来まして、20代前半位の女性だろうと思うんですけども…。
家族は全部死んだような話でしたけどねぇ。
その人自身、もぉ出血斑も、顔に出てるしね、もぉそうは持つまいと
思われるような人でしたけども。
入院勧めたんですけどねぇ。『家族が死んだここで自分も死ぬんだ』と。
どうしても離れないんですね。

まぁ、一般にあの辺の丘はまぁ、キリスト教の信者の方が多くって、
丘にいる限りはイエス様守ってくれるけども、出ちまうと駄目だめだと。
まぁそういうような考え方が相当根強くあったように思いますけども。

その人は…、まぁいわゆる迷信めいしんとかねぇ、
そういう風な感じじゃ無くてですね、
『父も母もここで死んだんだ。』、『わたしも死ぬまでここにいます。』、
『ご厚意こういありがたいけども、結構ですから。』
と、実にはっきりしてましたね。

そいで、泣いたりわめいたりするような人は一人もいませんしね、
見事なもんでしたね。
やっぱり宗教というものは強いもんだなと痛感しましたねぇ。
あの当時の入院患者、外来全ての人がですね、
死に際は綺麗きれいだったということですね。
嘆き悲しむってな光景は全然無かったですね。
不平をいう人も居なかったな。
見ててね、非常に崇高すうこうっていう感じでしたね、みんな。
これはもぉ、長崎市の人がね、後々に至るまでね、
誇って良い事実だと思いますね、わたしは。

石の首だけごろごろ 伊藤明彦 撮影 

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