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証言260 | 8月11〜12日頃 | 軽油なんかを掛けて、だいぶ焼きました | 当時30歳 |
そしてその翌日から、いわゆる浦上のね、
分工場の方の、死体の収容〈をしに行った訳〈ですよ。
一日にやっぱ何十人って焼きましたよ。
そして運ぶのもね、夏で臭いからね。
もう触られんでしょ。
戸板のような板切れに乗せてね、一箇所に集結して、
軽油なんかを掛けてね、だいぶやっぱ焼きましたよ。
ほうで、一日に一番焼いたのが、50人ぐらい焼いたようでしたね。
もう、くさくてねぇ、その頃は…。もう2日、3日経ったのはもう、
夏でしょ、腐敗しとるでしょ、もう…。
食事はね、弁当ば、不味〈か弁当ば持って行っとってでも、
余計まずうして食えんような時のあいよりましたよ。
もう、道路、あっちこっちに、まあだ収容〈せんね
死亡者がゴロゴロしとった時代ですからね。
支那〈大陸におる時の、戦争するときはね、そりゃーね、つらいですよ。
田んぼなんかに何十人って死んだ人がおりましたよ。
戦死したのがね。支那〈人も、日本人もですけども。
だけども原爆ちゅうのはね、長崎市全体でしょ、
やっぱ原爆んとが酷〈かったですね、あのー長崎市全体やられるちゅうのは。