それで駅前に来たところが、もうそれこそ、自分のこう、
その頃の中等学校、高校ですね。高校はこっちの浦上うらかみの方に
あったのは、今の西高の前身の瓊浦けいほ高校、
鎮西ちんぜい高校、商業、工業、純心じゅんしん、なんだかんだたくさんありましたもんね。

そこに、子供をやっている子供の親が、自分の子供の安否を気遣って、
長崎へん、駅の向こうは行けんもんだから、そこに、
もう何千人という自分の子を探して来る親が、いっぱいおって
泣いたりわめいたりしょるわけですたい。またそこ行けば、
同じ年代ですから、もう自分の子の名前を言って
飛びつくわけですね、私たちに。

あそこにおそらく、2千人や3千人はおったんでしょうよ。
その子供、自分の子、浦上うらかみ方面の学校にやっていた、
または、学徒がくと動員どういんで、三菱製鋼所せいこうしょとか(三菱)兵器とか、
そういうふうな所へ学徒がくと動員どういんで、自分の子をっていた親が、
自分の子供の安否を気遣って、とにかく、自分は火傷やけどして、
血はダラダラ出たり、真っ裸、あっちもこっちもしとっとに、
自分の子の名前をピーピー、ピーピーおめいてですねぇ、
もうきちがいみたいになっとったですね。

駅前には死んだ人がうようよおって、それを踏んだりったりして、
なんともなくして、群がったですもんね。
私達の年代の人が通りますと、ワーッと来っとですもん、
自分の子の名前を呼んでですね

夜の長崎駅 伊藤明彦 撮影 

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