大橋おおはしに近づいた頃、私達は異様いような声が集まるのを耳にして、
川の中には、水のある所といわず、ない所といわず、
幼児、男、女、老人の区別なく、
その数はおそらく何千人という人たちだったと思います。
その人たちは、付近一帯が一瞬にして焼けたので、逃げ場がないので、
この川に走り込んだものであると、すぐ直観されたわけです。

私は(昭和)12年から15年まで、北支事変ほくしじへんに現役兵として参加して、
友軍ゆうぐんが何百人と死傷したことがある。この悲惨ひさんな光景に何度か遭遇そうぐうしたが、
軍人は若者の集まりばかりで、まして自分自身もいつ死ぬかわからんと、
覚悟をしていたので、次は自分の番かと思うくらいであったが、
この状況はどうだろう。

重傷の何千人という老幼男女のうめき声は、
なんと表現していいか、表現はとてもできません。

私は、地獄という言葉を子供の頃から聞いていたわけですが、
しかし戦地せんちにいるときは、地獄とまでは感じませんでしたけど、
この光景を見てその時、これが本当のこの世の地獄と思って…。

被爆者の絵・倒れて輪になって死んでいる人々(長崎原爆資料館 所蔵) 被爆者の絵・散乱して倒れている人々(長崎原爆資料館 所蔵) 大橋付近の浦上川(惨状の舞台) 伊藤明彦 撮影 大橋付近の鉄橋 伊藤明彦 撮影 

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