特別救護隊員とくべつきゅうごたいいんに集合命令がかかったので、私達は、「救護隊員」
と書いた赤タスキをかけて巡査部長、10数名集まったわけです。

私と、同僚の巡査部長1名は、『君たち2人は、今からすぐ、
長崎駅前から、道ノ尾みちのお付近まで、列車と車両が
通行できるかどうか、すぐ報告してくれ』というような命令を受けました。
その頃まだ、ロッキード(P38。アメリカの戦闘機。艦載機ではなく、
硫黄島いおうじま基地の陸上機)
など長崎上空を飛び回っており、
私は、これは決死の仕事だと思ったとたん、一瞬身ぶるいがしたわけです。

当時私達は、地下足袋じかたびに黒いゲートル、黒く染めた夏の制服を着て、
短剣を下げた姿でしたが、まだ燃え続けてくすぶっている
市街地を出発したわけです。

井樋の口いびのくち(現在の銭座町ぜんざまちを少し出たら、市街地は完全に燃えつくして、
本原町もとはらちょうの丘まで一望に眺めることができました。
負傷者は、周辺に何千人とうごめきあって、焼け残った電車の中には、
腰掛けたまま焼け死んだ人が、そのままの姿勢で並んでいるのが、異様いようで、
爆発のすごさが、はっきり、認められました。
このような電車は、その付近に6台か7台あったと記憶しております。

それからそのままずっと通って行ったわけですが、その途中には、
負傷者があちらこちらに、火傷やけどにあえいでおって、『警察の人、助けて下さい』
『治ったら、また国のために働きます、助けて下さい』と、
両手を合わせて、何回もおがまれたわけです。
私達2人は薬品を持っているわけじゃなし、
おがまれても、どうすることもできなくて、



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