暑い夏だから、
シャツ1枚しか着とらんでしょうが、パンツ1枚でしょうが、
皆それがボロボロにちぎれて破れとるですよ。
それで、まったく、全裸の者もおりました。
そらもう、とても、なんち言っていいか、形容けいようする言葉は
その、悲惨ひさんな状態は、なかったわけですね。

でもしかし、それ、急いで収容しゅうようしないと死んでしまいますからね。
それを、抱いたり、あるいはかかえたり、あるいは背ったり、
あるいは担架に乗したり、戸板に乗したり、あるいはトラックに乗したりで、
駅の付近にある仮設の海軍病院にまず入れると。
足らないから、今度は中学校にも、女学校にも、
そいから、小学校が3つありましたから、3つと。
そいから、農事試験場のうじしけんじょうとか、武徳殿ぶどくでんとか、
そういうところに次々次々に収容しゅうようするわけですね。

ところが、そういう風な大きなケロイド、糜爛びらんしとるんですからね。
そのくるしみ…としたもんが、うんうんうなって
見ても聞いてもいられんですよね。

そして今度は、収容しゅうようする海軍病院の仮設病院でも、
学校でもどこでもですね、
布団ふとんもなければなにもないでしょ。
だから古むしろとかね、あるいはゴザとかね、
そいういう物を敷いて、それに被爆して火傷やけどっている人を
収容しゅうようして寝せるわけでしょうが。寝ても寝られないんですよ、痛くて。
だから、両手両足を犬のようにこうして、揃えて、
そしてうんうんうなるんですよ。

そして今度はその人たちがかわきを訴えるわけですね。
『水を、水を』いうわけでしょうが。
ところが水を要求通りやるとすぐ死ぬ、ということで、
ほんのこの唾を、筆か脱脂綿で浸してやる程度の水しか
与えられなかった、と。

そうする内にやっぱり2〜3時間か、
長い人で10時間ぐらいで、次々死んで行くわけですね。
諫早いさはや第一小学校に収容しゅうようしている男の40(歳)ぐらいの人でしたがね、
その人が収容所しゅうようしょからい出してね、
これはね、水を飲みたさにですよ、と思いましたね。
裏に小さい小川があったんですが、そこに行って、死んでましたね。
それがその水を求めてね、い出して行って死んだ状態でしたがね。
とにかく悲惨ひさんな状態で…。

被爆者の絵・救援列車がいる風景、諫早駅(田嶋義治 画/長崎県被爆者手帳友の会 提供) 

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