移動 ▽次 HOME
MC098月8日 夕刻
【ナレーション】
この時を約1週間さかのぼる8月8日夕刻 長崎県庁知事室にて




移動 ▽次 △前
証言1338月8日 夕刻見た話、広島の新型爆弾当時47歳
退庁時刻でした。
慌ただしく勢い込んで知事の部屋へ西岡さん(西岡竹次郎代議士)
が入ってこられたんです。
その時まで私は、広島の新型爆弾のことについては、
ちょっと新聞に1〜2行出たのを、ちょびっと見ただけで、
全然知らなかったんですが。

西岡さんが『広島の新型爆弾というのは、あれは大変なことですよ。
実は、私は東京の帰りに、広島を徒歩連絡で、海田市かいだいちかどっかで降ろされて、
あと徒歩連絡で、通過して、たった今、長崎の駅にいたばかりなんだが、
大きな、両手で抱き回すような大きな木がぽんぽん折れておる。
鉄筋コンクリートのビルが、建物がみんな押しつぶされる』というような話。
『広島の全市が火の海になったんだ』と。
『広島の街全体あちこちに、ベロベロに、顔から胸から
焼けただれたような人達が右往左往うおうさおうに走ってる』
というような状態であったという話を、聞いたわけなんです。

それで私は、『いったい今の話は、あんた自身の目で見たのか、
それとも人から聞いた話もその中に入っているのか』ということを言ったら。
『いや、これはもう私の見た話をみんなするんだ』と。

被爆前の長崎県庁(「長崎原爆戦災誌」第二巻/長崎市 刊より) 長崎縣廳の標識(現在) 伊藤明彦 撮影 

この証言の関連ホームページ
最初の報道 左記のトップページはこちら→ 広島平和記念資料館WEB SITE
NBC長崎放送 被爆者の証言15 左記のトップページはこちら→ NBC 長崎放送

移動 ▽次 △前
証言1348月8日 夜おにぎり、最後のお別れ当時19歳
8日の昼間に工場で、おにぎりの特配があったんですよ。
それは父の方の工場でも…、あったし、私共の職場でも…、
全工場であったわけですね。

ちょうど8日の晩は空襲くうしゅう警報がありまして、防空壕ぼうくうごうに入ったんですね。
家の近くの防空壕ぼうくうごうに入って、父も母も、私共兄弟もみんな入りましてね、
そのおにぎりを分けて食べた。
それがもう本当に最後のお別れだったみたいですね。




移動 ▽次 △前
証言1358月8日正夢ば見とるとですよ当時41歳
あーた、原爆が落ちる夢を見たんですよ。
飛行機がどっから飛んで来たかからず、ピカッって光ってね。
そうしたら、あっちもこっちも怪我けが人ができるし、家は燃えるし。

(そうした)夢…。正夢まさゆめば見とるとですよ。

それから私、隣の奥さんにね『うちはこうこうして、あんた、
飛行機がどっから来たとやらピカッって光ってね、
火事んあったとやが』って言ったらね、
『あんた、そういうことばっかり言うとる。
いま(に)軍法会議ぐんぽうかいぎに回されるっとたい』。

『へー、夢見たとでも話ししたら軍法会議ぐんぽうかいぎに回さるって、
ほおぅ、恐ろし恐ろし』って言うてね。私は帰ったんですよ。

そしたらあーた、初めて長崎に落ちて…初めて、
あらー夢とまぁ同じもんたいと思うてね。
ひとつも変わりませんでしたね、夢と。



この証言の関連ホームページ
軍法会議 左記のトップページはこちら→ はてな

移動 ▽次 △前
MC108月9日 午前 長崎
【ナレーション】
8月9日 午前 長崎



この証言の関連ホームページ
長崎の原爆(前日までの長崎) 左記のトップページはこちら→ 探検コム

移動 ▽次 △前
証言1368月9日 朝やっぱり造船が狙われている当時23歳
あの日はちょうど、小雨が降っておりました。
そして、7時頃出勤しますのでねえ、酒屋町さかやまち(現在の栄町、魚の町)から
幸町さいわいまちまでね、電車でございますもんね。

そして、雨がしとしと降っていたんで、
いちばん悪い靴をいて行っとったわけですよね、
新しい靴を兄から買ってもらっとったんですけど、
雨が降るからと思って、もったいなくてですね。
そして、社給しゃきゅうの洋服を着まして、
袋には全財産を入れまして、薬もみんな入れましてですね。

だいたい8月6日に、その…広島に新型爆弾が落ちたということで、
非常に緊張はしとりましたですよ、これは。
やっぱり造船(三菱造船所)が狙われているっていうような
通達つうたつが回っておりましたのでですね。
防空頭巾ぼうくうずきんと傘をさして、弁当を持って、そして参りまして…



この証言の関連ホームページ
三菱重工 長崎造船所(←ここがこのページのトップです)

移動 ▽次 △前
証言1378月9日 朝その朝、奇妙なことに当時40歳
だからその朝、
『僕は今晩は当番だから、たぶん帰られないと思う』と
(医大生の)子供(が)言いましてね。
その時、奇妙きみょうなことに、いっぺん出て行って、そして途中で引き返して来て
いっぺん帰って来ましたもんね、その朝は。
おかしいねこの子は、今日は帰って来とる
『あんたどうしたの、今日はサボるつもり』って言ったら、
『いいや、なんかちょっと忘れ物したようにあるから、
僕、取りに来た』って言って。

防空壕ぼうくうごうの中に大事な書物を、いつも入れとくんですけど、
それを見に来たって言って、わざわざ見に来たんですよね。
ああここに入っとるから『おかあさん、もしも爆弾が落ちたときには、
この本だけは大事にしといてくれんね』とわざわざ私に言ってね、
そして出て行ったんです。
その頃は、ドイツ語で書いた本は非常に貴重だったんでしょうね。
それでわざわざ引き返して、私にそう言って、出て行った。

それから弟の…、まだ4つと2つの子供を、妙に抱き上げてね、
『兄ちゃん行ってくるからね、元気でおんなさいよ』
いつもせんことをして出ていったんですよ、今から思うとね。




移動 ▽次 △前
証言1388月9日 朝『僕に飛行機』、それが最後の当時30歳
9日の日は10時10分に出たんですけど。
子供たちが『私について来る』と言うたのを…
そいじゃけど、一番長男坊だけは、どうしてもついて来るって言うのを
なだめすかして、置いて来たんですけれど。

そしてその長男坊は、
『どうしても、おかあさん連れていかんならば、僕に飛行機を…』
こう、紙の飛行機のこんなとの、飛ばすやつありましたもんね、
あれをうてくれちゅうもんだから、『そんなら』って言うて、
下のなん(店)まで連れていって、そして3人、3つうて持たせて…。

そしてうてやったら、その長男も、後ろも見ずに帰りましたもんね。
それを曲がり角までだまって、私は眺めてたんですけど…。
それが最後の別れですね。
後ろ姿が未だに…七つの子の後ろ姿が…今でも忘れられません。




移動 ▽次 △前
証言1398月9日 直前金文字が、秋までもつか当時37歳
表通りだったもんだから、
表通りに面したガラスに「西日本新聞長崎支局」という文ん字を
金文字で看板かんばん屋さんに頼んで、描かせる日だったんですよ。
それで朝からずっとそれに看板かんばん屋さんがかっておりましてね、
出来上がる頃ですたい、写真部のヨシムラ君というのがね、
『支局長、この立派な金文字が、秋まで持てまっしょうかな』って
冗談言うたことがあるんですよ。
『ばか言うな、縁起の悪い』って笑ったことがありますが…。

看板かんばんが描き上がったわけですねー、文ん字が。
それでお金を払って、自分の席に戻ってね、座った時ですよ。

西日本新聞長崎総局の立て看板 伊藤明彦 撮影 


移動 ▽次 △前
証言1408月9日 直前B-29、3機あり当時18歳
小川町おがわまち(現在の桜町など)ちゅうところに、三菱の分院があったわけですね、
三菱の病院の分院です。そこの1階の待合室でその人とふたり、
木の椅子に長くなって寝とったわけですね。
そこに5〜6人、居ったと思うんですよ、待合室にね。
そいでラジオが鳴っていたわけですね。

島原しまばら上空を西に進んでいるB-29、3機あり』つったかな…、
一目標か…、3機やったと思うんですがね。
あっ長崎(に)、来るなと思うて頭上げたのといっしょにもう…

三菱病院船津分院廃墟(小川虎彦 撮影/長崎原爆資料館 所蔵) 

この証言の関連ホームページ
B-29投下機・BOXCAR(ボックス・カー) 左記のトップページはこちら→ The Kunnel's Cyberworld

移動 ▽次 △前
証言1418月9日 直前そのとたんに電気が消えた当時47歳
今日はとても大事な会議をするんだから、
みんな忌憚きたんのない自分自身の考えを披瀝ひれきしてくれ、と言うて
始めようとしたらね、そこへ佐世保の市長、小浦くんというの。
『ちょっと知事に、至急話したい、お願いしたいことがあるから…』
『いま会議を始めるばかりのところだけど、
立ち話くらいなら入ってきてもいいよ』と。

言ったら、いきなり入って来た時の小浦くんの言葉が、
『広島はえらいことになりましたねえ、大変なことですね』と
こういうことを言うたから、
『ちょっと待ってくれ、それは誰に聞いたんだ?』と言ったら
『いや、鎮守府ちんじゅふ司令長官からじかに聞きました』
『そうか、それはとてもいいニュースだから、
その問題についての、いま、会議をしよるんだからね、
キミの聞いた、鎮守府ちんじゅふ司令長官からじかに聞きいたというその話を、
先にみんなに聞かせてやってくれ』と。
それはなによりありがたいことだ、と。

言ったそのとたんに電気が消えたんですよ。

被爆前の長崎県庁(「長崎原爆戦災誌」第二巻/長崎市 刊より) 長崎縣廳の標識(現在) 伊藤明彦 撮影 

この証言の関連ホームページ
鎮守府(後半の海軍 鎮守府) 左記のトップページはこちら→ ウィキペディア

移動 ▽次 △前
MC11午前11時2分
【ナレーション】
午前11時2分

11時2分で止まった時計(長崎原爆資料館 所蔵) ファットマンの模型(長崎原爆資料館 所蔵) 

この証言の関連ホームページ
ファットマン 左記のトップページはこちら→ たむ・たむ

移動 ▽次 △前
証言1428月9日 瞬間丸い玉が長崎を押さえつけ当時22歳
兵隊の声で『野母半島のもはんとう上空通過』と言う声と同時に
「パッ」と炸裂さくれつしたわけですが、
ピカッとしたその、丸い玉ですよ、その時は。

丸い玉みたいなのバアッと長崎に、
押さえつけましたですね、バアッと押さえつけて、
ちょうど海水浴に使う「浮き」でございますね、
桃色のドーナツと言いますか、こうれん紅蓮ぐれんの炎と言いますか
そういうのがボッとドーナツみたいなのが出来たんですが、
その横幅が、ちょうど香焼こうやぎから見まして
稲佐岳いなさだけと同じような太さでございました。

(高度)八千というようなことを中隊長に報告すると同時に下の方から、
例のキノコ雲と申しますかあれが真ん中にすーっと出てきたわけですが、
それが間もなくそのドーナツみたいな輪を通り越しまして、
上の方にぶーっとこう盛り上がっていくわけでございますが、
その高度が1万、それから1万2千、1万3千、
と言うことを私は中隊長に報告しましたが、
もう以後は報告するすべがなく、後はずーっと形をくずしまして
上空へ上空へと行ったんですが…

香焼島から見たきのこ雲(松田弘道 撮影/長崎原爆資料館 所蔵) 

この証言の関連ホームページ
地図(右・島原半島→左・野母半島) 左記のトップページはこちら→ Yahoo!地図情報

移動 ▽次 △前
証言1438月9日 瞬間・直後真っ赤に燃える火柱が当時35歳
ぱっとこうね、浦上うらかみの方の空を見たわけですよ。
そしたらもう浦上うらかみ一帯がですね、地上から天に届くようなですね、
それこそ真っ赤に燃える火柱ひばしらが立っていたんですよ。
『うわぁ、こりゃ浦上うらかみはおおごと、浦上うらかみはこら火の海ばい』って。

それがですね、その火柱ひばしらが、ずーっと消えるのと一緒にですね、
上からなくなり、下からなくなり、すーっと消えてちぢまってですね、
火柱ひばしらがなくなるのと一緒に、キノコ雲がずーっと上がったわけですよ。
キノコ雲が上がる時分じぶんにはですね、空の色がきれいな茄子なすの色、ですね。
ああいう茄子なすの色に空が変わって、一転してかんかん照っとった
お昼の太陽が、肉眼で正視できるようになったんですよ。
そしてね、もう太陽だけが、火のもろくれない(?)のようにして燃えているんですよ。
ああ、こりゃもう天と地のひっくり返ったと。

きのこ雲(米軍 撮影/長崎原爆資料館 所蔵) 


移動 ▽次 △前
証言1448月9日 瞬間・直後生暖かい風が背中の方を当時36歳
…そいで、せしとったわけですが。ちょっと時間があったもんだから、
なんじゃろかと思ってちょっと顔を右に上げてみたんですよ、
そうしたところが、長崎駅の方から
中天ちゅうてんに材木ですね、材木とか、かわらとか、なんかしらん石ころ…
それが、要するに…竜巻たつまきですね、竜巻たつまきの格好で、
ぐんぐん…もうて(舞って)来るわけですよこっちに。
勝山かつやま小学校の方に向かって。

これはもうただごとじゃないぞと思っておる瞬間に、
勝山かつやま小学校のガラス窓が、猛烈もうれつな勢い)で壊れたわけですね。
それで大変だと思って無我夢中でせたところが、
生暖かい風が背中の方をさっと過ぎたわけです。
そして同時に顔を上げたところが…

きのこ雲(米軍 撮影/長崎原爆資料館 所蔵) 


移動 ▽次 △前
証言1458月9日 瞬間背後から原爆の光線が襲う当時16歳
「パアッ」とこう、目もくらむような閃光せんこうが青空一面に広がって、
花火みたいに赤や、紫、黄色のという風な、
目もくらむような色の火の玉がですね、
雨霰あめあられとなって地上に降り注いで来たんです。
その光線(火の玉)が自分の顔に当たったとき、
ものすごい焼け火箸ひばしを当てられた感じの、ものすご劇痛げきつうを感じたんです。
あっと思って、顔にそこだけ手をやって、左手で押さえたんですよ。
ところが、押さえて、こうでたらですね
ペロっと皮が上から下に一枚けて下がったんですね〜。
それでビックリしてあわてふためいてそこから2mばかり離れた
横穴の防空壕ぼうくうごうに逃げ込んだんです。

逃げ込むとき、背後から原爆の光線がパッパパッパ襲ってきたんです。
背後から来たもんだから、背中は全部その時焼けて、
防空壕ぼうくうごうに入りこんだんですけど、がけをくり抜いた防空壕ぼうくうごうで、
前に遮蔽物しゃへいぶつがなかったものだから、光線がもう次から次ぎに侵入してきて
たまらんもんだから、側にあったYシャツを
頭からかぶってしゃがみ込んだんです。

ところがYシャツを手で押さえて、出てるところは手と腕だったんですけどね、
その腕や手が光線で波状的にパッパパッパやって来るんです。
本当その光線というのはものすごい熱さですね。
それでもう熱いもんだから、歯を食いしばって身悶みもだえしながら
うんうんうなって歯を食いしばってがんばっていたんですよね。
それがもう、無限の時間、長い時間に考えられてですね。

長崎原爆資料館学習ハンドブック(PDF版)は「長崎市 平和・原爆 修学旅行ガイドページ」からダウンロードできます。

被爆者の絵・きのこ雲(嘉松半四郎 画/長崎県被爆者手帳友の会 提供) 


移動 ▽次 △前
証言1468月9日 瞬間燃えてるんです、靴が当時20歳
私はね、太陽が落ちて来て、じゃないかと思ったね。
その音のすごさと、光の強さね。パーーンという音に、ピカッとして。
ピカドンという言葉がよく言われますけど、
私にはね、最初から見てたせいか、
もう、音と光と、一緒のような感じがしましたね。

黄色なんです、なんでもかんでも。煙が動いてるんですね、
空気が動いてるという感じなんです。
まず、声が聞こえるんですね。『やられた、助けてくれ〜』と。
ちょっとのぞいてみると、手をだらーっと下げちゃってね、
裸の兵隊がさぁ、うろうろしてきちがいみたいにさけんでるんです。

ものすごく、こう痛みだしてね、
私はまたそのまま立ち上がったのを、そのままうずくまったんです。
でも考えてみるとね、燃えてるんです、靴が、シャツが。
くすぶってるんです。やっぱ本能的に煙を消して。

とけてくっついたサイダーびん(長崎原爆資料館 所蔵) 破壊された電車線路(長崎原爆資料館 所蔵) 

この証言の関連ホームページ
長崎市への原子爆弾投下 左記のトップページはこちら→ ウィキペディア

移動 ▽次 △前
証言1478月9日 瞬間・直後鬼みたいのが「クワー」って当時17歳
青い色と、ピンク色ですかね、黄、ああいうような火花が出ました。
そのあとに「ドーン」という大きな音がしました。
そしてそれから台風みたいなので、家もねたたき潰されたごとなりました。
酸素さんそ工場の女の人が、出てきて『あんた、誰ね』って言うたら
『うちは、あんたに伝票でんぴょうを書いた女です』って。
『ああ、あんたはそげんなったね』。
そのときは女の人はもう裸です。大火傷やけどうちょりました。

部下を『おーい、おまえたちは元気にあるか〜』と言うた時には、
もうその時は全部、20名は死によりました。

女の人の『さあ逃げよう』手を握った時ですね、火傷やけどを、
女の人…ずるっとけて血がバーッと流れました。
そして、火の中を逃げるとき
『助けてくれー、助けてくれー』ち、おらぶ人がおって、
火の海やったから家の下敷きになっとるけん、
助けようにも助けられんかったです。
その時ですね、丁度ちょうど、原爆の(落ちた)雲がですね、
ちょーど上から下を眺めると丁度ちょうど
鬼みたいのが「クワー」って下を眺めたごと、
ああこれが地獄の一丁目かなと私思いました。
これが本当の地獄の一丁目やなーっと。
それから人間の死体を何人も踏んで、すべってですね、どうかこうか、まあ…

被爆者の絵・火の中で焼ける人、子供(長崎原爆資料館 所蔵) 被爆者の絵・顔中血に染まった女性(長崎原爆資料館 所蔵) 被爆者の絵・炎の中の建物(長崎原爆資料館 所蔵) 被爆者の絵・横倒しの電車と路上の赤い遺体(長崎原爆資料館 所蔵) 


移動 ▽次 △前
証言1488月9日 瞬間・直後背中に「熱ッ」って感じた当時16歳
ちょっとこう、後ろを振り返ったんですね。
その瞬間、稲光いなびかりのようなのが「パッ」としたんですよ。
背中に「熱ッ」って感じたんですね。
熱ッと感じたちょこっとの瞬間だったんですけど、すご火傷やけど
気が付いてですね、板をはぐって(めくって)外に出たとき、
まだ誰もいなかったですよ。
周りは全部、こうぺちゃんこになってしまっているでしょう。
そして、私何処どこに来たんだろうかと思ったんですよ。
ひとりだけでしょ立っているのは。

もう周りを見てもどこもからないんですよね。
そいで、誰かが『助けてくれ〜』言う…言われたんです。
そいで自分にかえって、もう自分の着物なんにもないんですよね。
ズロースだけに…、なっているんです。




移動 ▽次 △前
証言1498月9日 直後目をつぶる時間もない当時35歳
『なんかねありゃ』、光線と爆風ばくふうと一緒に入って来たっじゃが、何だろう。
とにかく、ここは穴の中やから、まあ危険なことないだろうと。
ちょうど坂本町さかもとまち外人墓地の下に横穴を掘っとったですからね、
『とにかく出てみようか』と、やっと身体が抜け出るくらい掘って
こーして見たところが、外はあんた、死人だらけでしょう、
みんな裸でですなぁ。
『おーい、こりゃ大ごとぞ、とにかく早よ出ろ』って。

出てですね、それで見たところ、触ると皮はべらっと、
目は開けたまま、目をつぶる時間もないわけですね。
息の切れるまでに…。目を全部開けたままですよ。
その穴を出てからですね、死人を、片手おがみですよ
千手……じゃないけども、
こらえてくださいって。涙が出るんですよ、ねえ伊藤さん。
当時を思えば、涙が出るんですよ、

本当に、死んだ人を踏まんと歩かれんやったっですよ。
こらえてくださいよって踏み超えて、走ったっです。
その間、もう、まだ息のある人はですね、
女じゃろう、男、もう容相ようそうからんわけですよ。
燃えっしもうて、血をびてもう、
その形相ぎょうそう『助けてくれー』とおめきよるとをですね、
そらどうもされん、その時のなさけなさですね、どうもしいきれんとですよ。
本当なさけなかったです。もう生き地獄ってあれのことでしょうね。

横穴防空壕の入口(外人墓地下付近) 伊藤明彦 撮影 被爆者の絵・ころがっている黒い遺体、負傷者、燃える炎(長崎原爆資料館 所蔵) 三菱兵器製作所大橋工場廃墟(現地プレートより) 三菱重工原爆供養塔 伊藤明彦 撮影 三菱重工原爆供養塔、原爆殉難者芳名碑 伊藤明彦 撮影 

この証言の関連ホームページ
外人墓地より長崎の町(下の方にあります) 左記のトップページはこちら→ 遊々楽々手作りライフ

移動 ▽次 △前
証言1508月9日 直後弟の頭、真っ二つに割れていた当時13歳
前を見ましたところ、くすのきが、もうパチパチパチパチとですね、
星のように光って木の中から、火が「パーッ」と吹き出たみたいな感じで、
七色の、色で燃えているのをはっきりですね、この目で見たんですよ。
ああ、これでしまいた、これで終わったんだなあ、
いつ、自分はいつ死ぬんだろうか、っていう気持ちだけっだったですね。

あわてて『お母さーん』って言ったんです。お母さんが、
『タダヒロ、タダヒロ』って弟の名前を何回か呼ぶうちにもう、
火傷やけどでですね、水ぶくれをかかえて弟を…。目の前に居りましたもんですから、
『ああここに居た』ちゅうて、左の手でかかえてですね、
防空壕ぼうくうごうに走って行ったんですけど、その時弟の頭を見ましたら、
真っ二つに割れていた。

頭から血がどんどんどんどん出てますもんですから、
こらいけないと思うて、またあわてて防空壕ぼうくうごう
あたしも一緒に走って行ったと思います。
その時は家の中も外も、火に包まれましてね…。
布団ふとんを干してた、そのお布団ふとんに光線があたりまして、燃えてたと思います。
母が『あいた、あいた、あいた、あいた』って言いながらですね、
『お母さん、どうしたの』って、ここを見たら水ぶくれでぶら下がっているのが
ビーッっと破れちゃったんですよね。
破れたかと思ったら、そこからヒリつくんでしょうね、
『痛いよ、痛いよ、痛いよ、痛いよ』って、お母さんが始終しじゅう言い出しましてね…

山王神社の被爆楠(米国戦略調査団 撮影/現地プレートより) 現在の被爆楠 伊藤明彦 撮影 


移動 ▽次 △前
証言1518月9日 直後苦しい呻き声に蝉の音が当時12歳
その防空壕ぼうくうごうの端っこにはうちの防空壕ぼうくうごうがあったんです。
そこに私、入り込んだんです。兄が居ないかナーっと思って。
(そし)たら兄が居ないんです。出たんです。
そしたらキョウコちゃんが、『みっちゃん、みっちゃん』って呼ぶんですよ。
そしてね、そして私がね、あんただあれと聞いたら
『キョウコよ』って言うんですよ。

近づいて来て、『みっちゃん、水、水』って言うんですよね。
そのときはその、水をやれる状態じゃなかったんです。
姿を見ましたら、真っ黒! 髪の毛もなんにもない!
ただ、パンツのゴムだけ…。
皮膚もね、下がってるんじゃなくて真っ黒、くっついて……
焼けると…水ぶくれが…、そんなんじゃないんです。
もう、真っ黒! だからよっぽどひどかったんでしょうねー。
『水を、水を』ってね。本当あの声はいまだに、この、…残ってるんです。

だからね、家の裏にこの位の桜の木を持ってきて植えてたんです。
それが、こんな大きくなったんですね。
夏になるとせみの音がね…、もう『水、水、水』って聞こえるんですよ。
『水、水、水、水をちょうだい』。
それとあのうめき声ね、くるしいうめき声にせみの音が聞こえるんです。
それでもう全部切ってもらったんです。




移動 ▽次 △前
証言1528月9日 直後誰もいない別世界当時34歳
ちょうど別世界なんですね、誰もいないから。おかしいなあと思ったんですよ。
そして周りを見たら薄暗くなってるんですね、さっきまで真昼でしょう。
空は青くて白い雲が少しあるだけでね。もう、きれいな景色だったのがね。

ちょうどもう薄暗くなってね、真冬の山で雪がいっぱい降ったとき、
薄暗ーくて、なんとなく暗い景色になりますね。ああいう状態なんですね。
陣地じんちに今まで大勢いたのが一人もいないでしょ。
とにかく「ぱっ」と下を向いたときね、
丁度ちょうど隙間すきまなく一定の正確な間隔を置いてね、
チョロチョロ燃えているんです、街全部が。浦上うらかみの方がですね。
長崎医大の真上ですからね、一目で上から見えるんです。
街全体が、浦上うらかみの方が。

いつの間にこんだけの焼夷弾しょういだん落としたのかな、と思ったですね。
これが本当につながったら、続いてしまったら火の海だなと思ったですね。
ゾーッと背筋がまた寒くなりましたよ。
すべて終わりだ、全部がおしまいだ。

金比羅山陣地兵舎付近(小川虎彦 撮影/長崎原爆資料館 所蔵) 高射砲陣地(土岐えみ子・深堀勝一 画/長崎県被爆者手帳友の会 提供) 高射砲陣地跡の原爆戦死者之慰霊碑 伊藤明彦 撮影 金比羅山中腹(江平町)よりの浦上方面 伊藤明彦 撮影 

この証言の関連ホームページ
焼夷弾(中程) 左記のトップページはこちら→ ヨシダ模型製作所

移動 ▽次 △前
証言1538月9日 瞬間・直後ちょうど肩んところから腰まで当時17歳
もう、工場の中じゃけど、真っ暗すみですよ。
炸裂さくれつした)瞬間、ビーン…頭がジーンとなってもう耳がチーンと
なんかガーンってたたかれたのと同然ですね。
そして、最初受けて、うわ爆弾だと思うたんじゃけども、
なんだって思いよる最中に今度はもう、タッタッ、爆風ばくふうっていうですかね、
もう四つんいなっとっても突っ張っておりきらんぐらい強かったんですよ。
そして3回か4回ぐらい、やっぱ波状的に来たですね、爆風ばくふうが。
突っ張っとっても、グッググッグ背中から爆風ばくふうで押されて。

そしてして、白う窓んところがボヤっーっと見える。
そいでそっちに行こうにも結局バラバラになっとるから、
上のトタンなんかが落ちて重なっとるとばですね…
歩けんわけですよ。そいでもう、泳いで行ったのかって
行ったのか、そこまで無我夢中で窓際まで行ったとです。

窓から飛び越して出たところが、2〜3人。あっち1人、こっち1人。
トタンが結局爆風ばくふうでボーッと上に上がっとるわけですね。
それが降りて来る、直接サーッと降りて来る、ちょうど
肩んところから腰まで、口があいとるぐらい切れとったです。
血はトット流れよるわけですよ。その中を今度はもう、
目ん玉は結局飛び出たら、こう下がるんですね、この辺まで。
ぶらーっと下がっとるわけだ、こう引っ込んでね。

そして、女の髪の毛は真っ縦に立っとる。全部。
結局、えずくて(怖くて)ビックリした時に
髪の毛が立ったって言うくらい。本当ですね。
結局、まっすぐこう、普通下げとる髪の毛がもう真上にもう、
でつけたごと立っとるんですねー
ほーってもう目ん玉は飛び出て…。友だちにすがってもう…。

工場廃墟(長崎原爆資料館 所蔵) 


移動 ▽次 △前
証言1548月9日 直後気がついたら釜の中に当時15歳
一瞬もう闇夜になっちゃったわけです。
ですから、はっきりその時に爆発音ていうものは聞いてないわけですよ。
あまりに近いためにですね。
ただ稲光いなびかりが、一瞬全世界が明るくなって、
一瞬また暗黒の世界になったような状態で。

気がついた時には、魚雷ぎょらいの心臓部たる噴霧器ふんむきの、
これは火力試験をするところの、その釜の中に入っちゃったんですね。
と、立ち上がろうとしたところが、『あっそうだ、ここは釜の中だったんだな』、
何時いつ入ったんだろう。自分でも無意識だからわかんなかったんですが。
ほとんど薄暗いもんですから手探りで出て。

ほんで、表でちょうどその時に女の子が二人で表を掃除していたんです。
これが二人ともどこへ吹っ飛んだんだか判らないですねー。
なんの形もないんです。
ほんで、ちょっと行きましたところが、組立工場長がですね、
左足の片っ方が全然ないんです。
結局なんかの拍子に切れたんでしょうね。切断されてるんです。
そこには、おびただしい人が泣きさけんでいる…。
もう真っ暗ですしね。

被爆者の絵・工場内で閃光を感じる(深堀勝一 画/長崎県被爆者手帳友の会 提供) 

この証言の関連ホームページ
『魚雷』を造っていた三菱重工業(株)長崎兵器製作所茂里町工場の原爆被爆跡 左記のトップページはこちら→ 東高在京同窓会ホームページ

移動 ▽次 △前
証言1558月9日 30分後位?手首を鋸で切って、出して当時31歳
2階からごそっとくずれ落ちて、その中に女子挺身隊じょしていしんたいの連中が
100人ぐらいは居るんですけん。
そいが、わいわいその中で、みな狂いおった。
そいから、そのエンジンをいっぱい吹かして…
その、泣きさけぶ…。火が少しずつ回りだしたんです。
正味10分でしょうね、エンジンを全開させて、もういっぱい吹かして…
ホースで、一人ですけん、水をかけようもなにもないし。
そいから、かけたんですよ。エンジンは全開して吹かしよる、
あわてちょる。一人でするもんじゃからもう、すぐ真っ赤になって
エンジンは、もう、止まってしもうたですたい。
オイルも悪いもんですけんね。

ところが一人、女の子がH鋼のはりに手首だけ下敷きになって…。
一人飛び出しちょったのが居った。それからそれを、手首を切って、
可哀想かわいそうだと思ったけど、のこぎりで切って、それで出して、
止血をして『早くここを逃れなさい』と。

被爆者の絵・崩れた工場の下敷になっている少女たち(長崎原爆資料館 所蔵) 


移動 ▽次 △前
証言1568月9日 30分後位?生きながら燃えてる人間も当時34歳
まあ、待避たいひする瞬間がですねえ、その工場内でも、
実際もう、ものすごく人間が死んでるんですねぇ。
それから生きながら燃えてる人間もおるわけですよ。
なぜかと言うと、結局大きな工場、倒れとるでしょう。
そのはりの下になってですね。そしてもう下の方には火が付いてるんですよね、
助けてくれって言うけど、とにかくもう助けるもんも誰もおらんわけですよ。
みんな瀕死ひんし瀕傷ひんしょうで、とにかく自分がもう一生懸命いっしょうけんめいでしょ。
そして一人ふたりじゃはりなんか動かそうて動かんわけですよ。

二度とあんなとは、見ろて言われたって見られんですね。
また、見きらないですねぇ、目をおおうごとありますよ。

そしてそうこうするうちに、
……敵のグラマンが低空射撃で襲って来るわけですよ。
防空壕ぼうくうごうに入りましたがね、防空壕ぼうくうごうに入ってもとにかく、
みな、逃げてくるのが、やはり全部もう、
重傷した全身もう熱風でやられた人やらですね
半身を光線でやられて焼けただれた者やら、息えに、
何人って待避たいひしてくるわけですよね。
そして狭い防空壕ぼうくうごううごめきおうてですね。

被爆者の絵・炎上する街・はりの下敷きになっている少女(村里鶴枝・長谷川誠 画/長崎県被爆者手帳友の会 提供) 被爆者の絵・防空壕内の負傷者とランプの光(長崎原爆資料館 所蔵) 

この証言の関連ホームページ
グラマン機 左記のトップページはこちら→ 陸奥屋

移動 ▽次 △前
証言1578月9日 30分後位?血膿の雲と炎が交差して当時36歳
防空壕ぼうくうごうに行ってみると、もうすでにもう一杯ですわね、重傷の人がね。
私なんかが入る余裕はないとです。
皆、息えで、とにかくもうなんて言いますかな、
地獄ですね。地獄絵巻を見るとと一緒です。
そいで、『助けてくれ、助けてくれ』言うけど、こっちも怪我けがしとるし、
もうどうしようもない。

そいからしばらくしたら、
今度はグラマンがやって来たです。
ズーッてねえ、グラマンが上ズーッって旋回して、
それで夏やから白いもん着とるもんだから、
もう目に付いたものは、わーっと機銃掃射きじゅうそうしゃやるわけですよ。
その当時が、雲なんか見るとですね、何とも言えん、まあ、
血膿ちうみを流したような雲がですね、
それ思い出したらちょっと頭がどうかなるごたるですね。

血のうみを流したような雲と、下から燃え上がった炎とですね、
上からの雲と交差して…。
何とも言えん、もう、いやな気持ちがするですね。今でも。
そしたら今度は丁度ちょうど近くに師範学校しはんがっこうがありましたが、
師範しはん学校が燃えだしてですね、
それもどんどんどんどん、もう燃えてですなぁ。
見る見るうちに長崎の街は燃え出したですよ、どこも。

被爆者の絵・壕内の六人の少女(山本帝子 画/長崎県被爆者手帳友の会 提供) 被爆者の絵・飛んで来たグラマンF6Fと炎上する工場(深堀勝一 画/長崎県被爆者手帳友の会 提供) 被爆者の絵・炎上する商業学校(長崎原爆資料館 所蔵) 


移動 ▽次 △前
証言1588月9日 13時頃いっしょに「君が代」当時38歳
どんどんどんどん長崎方面の、三菱の子供たちが、
全部もう逃げて来るんですけど、
どの子を見ても、髪はね、逆立ち、もうシューっとなり、
丁度ちょうど、お不動ふどうさん不動ふどう明王みょうおうの絵ですね。
そんな形の、もう着物はもんぺはボロボロボロボロになって、
そしてもう、血みどろでしょう。そしてもう、顔はとにかく真っ黒。
男か女かもそれこそ判りませんね。それがゾロゾロゾロゾロ。

丁度ちょうど水が流れて来るみたいに私どもの防空壕ぼうくうごうにの方に逃げて来る。
わたしもそれに連なってずーっと一緒に防空壕ぼうくうごうの中、入ったわけ。
そうしたらもう、中は真っ暗でございましょう、電気はかないですから。
真っ暗い中、みんなワアワアワアワア泣いて入るんですよね。
悔しくて泣いているのか、痛くて泣いているのか、
なんで泣いているのか判らない子が。
何人もじゃないでしょうけど、そのワンワン
防空壕ぼうくうごうの中ですから響くんですね。

さすがに私もなさけなくなって、これはなんとか、
この泣くのを止めたいなあと思いましてね、
「君が代」を歌い出したの、私が。
で、「君が代」を歌って、1番を歌ってしまう頃までは、
ワアワアワ言ってたんですけどもね、
2番を歌う頃ね、段々段々声が少なくなりましてね、
そして、泣き声がね、いっしょに「君が代」歌い始めたんです。
その時は、本当に嬉しくてね、「君が代」っていうものがね、
その頃のね、人達にこれだけの感興かんきょうを沸かすかと思いましたね。
みんな「君が代」歌いながら…

横穴防空壕の入口(外人墓地下付近) 伊藤明彦 撮影 

この証言の関連ホームページ
不動明王座像 左記のトップページはこちら→ 仏像ドットコム・東洋仏所

移動 ▽次 △前
証言1598月9日 1時間後位?すでに腰から下の感覚がなく当時16歳
正気しょうき付いて、そして辺りをこう見回したんですね。
すると、巨大な鉄骨があめのように曲がって、
その下敷きにわたしがなっているわけですよ。
立ち上がろうとしたところがですね、
頭と足がぴったり、くっついてしまって、お腹も足もついているわけですね。
丁度ちょうどあのぉ、海老えびのように曲がっているわけなんですよ。
そして、背中から頭にかけて、鉄骨が落っこちてきているわけなんですね。
それでその、もがこうにももがききれないわけですよ。

それで『助けてー』とおめいたわけなんですけれどね。
シーンとした中で、本館から若い女の人が出て来て、
少しはり隙間すきまがあったんですね。
その隙間すきまの中にその女の方が、四つんいに入り込んで、
両肩でその鉄骨を持ち上げて下さったんですよ。
それで、そこから私は救い出されて、一応立たされたわけですね。
ところがもう、その時すでに、腰から下の感覚がなくて…

被爆者の絵・崩れた工場の下敷になっている少女たち(長崎原爆資料館 所蔵) 


移動 ▽次 △前
証言1608月9日 正午すぎ自分はこれで最期当時14歳
花の中に埋まって寝とったんですね、その時が、夢が。
それでもう気持ちよく寝とったのが、間もなくしてから、その、
『近藤くーん』ってその声がかすかに聞こえたのが憶えていますね。
そして、あらー誰か私の側に来てるねぇー、
じっとしててくれればいいのに、っていうようなね、
そんな風な気持ちだったんですね。

そして掘り出される時はもう、憶えていないんですね。
天井のはりかなんかしらに、身体が、こう二つ折れたように曲がって
下敷きになっとったらしいですね。そして助けられて、
またそのとき「ドカーン」と大きな音がしたんですね、
爆弾みたいな音が。

そしてみんなはもう、足が達者だから、
全部地下の防空壕ぼうくうごうに入ってしまって、私一人だけ残ったんですよ。
誰も入れてくれる人がなくて。それで、あの、もうどうしようか、
もう、自分助からん、これで最期さいごやろうって言うて、
もう一生懸命いっしょうけんめい、泣くにも泣けんしですね。

様子をうかがっておったわけですね。
もう、周囲を見ると真っ赤に染まって燃えていたんですね。
それを見て、助からん…、最期さいご、自分はこれで最期さいごやろう、
という気持ちで、半分あきらめてたんですね。
そんなして、一生懸命いっしょうけんめい、『助けてくれー、
助けてくださーい』っておめきよる所に、
布団ふとんをひっかぶって、誰か、男の方だったんですね、かぶって来てから、
私にかぶせてくれたんですね。その時…

被爆者の絵・崩れた工場の下敷になっている少女たち(長崎原爆資料館 所蔵) 

この証言の関連ホームページ
天井の梁 左記のトップページはこちら→ 木組みの家

移動 ▽次 △前
証言1618月9日外へ向かってぼとぼと当時15歳
もうねぇ、何千人という群衆が
「ウーォー」っと移動しているんですよ、
工場の外へ向かって。
みんななまり色ですよ。
なまりの粉をね、吹き付けたみたいに。
目だけが白黒している。それでね、みんなもう重傷ですよ。
もう、胸のところ、背中、頭、首。
10cmから20cm位ね、引き裂かれて、ザクッと。

でね、『ハッハ、ハッハ』言いながらね。
ぼとぼとぼとぼとやってね。
走るでもない、歩くでもない、みんながそうですからね、
工場の外へ向かって出ていってるんです。




移動 ▽次 △前
証言1628月9日 1時間後位?「ウワ」って思うた時には当時15歳
もう、自分たち以外の所からもワンサワンサ、
羊の群みたいに、もう走って逃げるわけですよ。
そいでわしもそれに合流して。
ところが、全部、駅の方に曲がる列は一人もおらん。
全部、反対の浦上うらかみの方にですね。
先頭の曲がるごと、どんどこどんどこどんどこ行くわけ。

そしたらもう、女の人が真っ裸、道に座って。
もうなんもかんもないわけ、びっしゃげて(つぶれて)しもうて、民家ちゅうのは。
はっと見たら、こぅーして泣きよるわけですね。
見たら、おっぱいが千切ちぎれてですね、こぅーしとるわけですよ。
そして、「ウワ」って思うた時にはもうどんどんもう行くわけです。
並んで行くわけですからもう、なんかの牛みたいに。
何十人、何百人、並んで行くわけ。生き残ったもん全部が。

ほして、行ったらですね、ずーっと家のじゃげ(つぶれ)とりましょう。
しゃがれた中からですね、『助けてー』という声が聞こえるわけですよ。
走りよったら。で、誰がおめきよるかは知らんけど、
女の人がおめきよることは間違いなかわけです。女の声ですから。
誰もそれをとどまって、上げてくれる人は誰もおらんですね。
私も、もうそうどころじゃない。全部逃げるから全部逃げるわけですよ。




移動 ▽次 △前
証言1638月9日 脱出後それでも『抜いてくれ』当時15歳
中年の男性でしたけどね。
転んでて、胸の所に丁度ちょうど心臓の近くですけどね。
大きなガラス片が刺さってて、
それをその、自分でね、つまんで、…こうふるえましたよね。
『抜いてくれ、抜いてくれ、
助けてくれ、助けてください』というわけでね。
言うんですけど誰も振り向きもしないでしょ。

で、そのガラスを引き抜こうとしたんですけど、
血糊ちのりが付いてて。相手がガラスですから。
すべるんです。手ではね。何回やってもダメですね。

それで、腰にぶら下げとった手ぬぐいを抜いてね、
手ぬぐいをあてがってやったけど、
やっぱり血糊ちのりが付いている間はダメでね、すべって。
で、血糊ちのりの付いていない方を、こう、変えていって、
そいですべらないところでグイグイと、こうね、揺すって。
そらもうものすごく痛がりましたよね。
ものすごい悲鳴上げたです。それでも『抜いてくれ』って言うんです。
私も覚悟を決めましたよね、抜いたです。
ががががと揺すって、ズボっと抜いたところが、ガボっと血が出て。
たぶんね、今考えてみると、
心臓を切ったんじゃないかと思うんですよねぇ。
血がガボっと出ましたからね。同時に気を失つちゃったんです。
悪いことした…と思ってねぇ。




移動 ▽次 △前
証言1648月9日 正午頃背中がないんですよ、えぐり取られて当時14歳
そして抜け出たんですけど、方角が全くからないわけです。
今まであった建物というのが、全く全滅しているでしょ。
それといっしょに、九大(九州大学)の生徒ですけどね、
『どっか怪我けがしてませんか』と言うんですよ。
その人は、私が怪我けがしてるのを
気遣ってくれてるわけじゃないんですよね。
自分が怪我けがしてるのを、
どこか怪我けがしてないか見てくれという意味なんですよね。

見たら、表面、白いワイシャツ着てて、
その、全く怪我けがしてないんですよ。
それで、『いいえ』と言ったら安心して、
くるっと後換えって向こう(へ)走っていったんですよ。
それを見てびっくりしたんです。
背中がないんですよ、えぐり取られてですね。

もう男と女も全く区別はつかないし、
血塗ちまみれの人間がそいこそ右往左往うおうさおうしてるでしょ。
それがこう、自分をみんなが追いかけて来ているというような、
夢の中で、こう、追われるようなですね。

ところが、機銃掃射きじゅうそうしゃするんですよ。もうですね、5mも行けないんですね。
そしてこう、あれ戦闘機ですかね、目が見えるんですよ。
アメリカ兵独特の目が、くぼんだ目が見えるのか、サングラスかけてるのが、
あんな(に)見えるのか、もうせせら笑うようにですね、
もうすぐ下まで降りてくるんですね。
来たと思ったら、ぱっと次の防空壕ぼうくうごうまで、どうかして走って行こうとか、
思うんですけど、途中でやられてしまう。わらをもすがるでそこら辺にあったのに
バッとつかんで、この、しがみつくわけですね。後で気がついてみたら、
死体にしがみついていたりですね。

被爆者の絵・飛んで来たグラマンF6Fと炎上する工場(深堀勝一 画/長崎県被爆者手帳友の会 提供) 


移動 ▽次 △前
証言1658月9日 30分後位?機銃掃射でダダダダダーッ当時16歳
『敵機だー』ちゅうことで、防空壕ぼうくうごうの入口に動ききらんもんだから
しゃがみ込んでしまったんですよ。しゃがみ込んでしまったら、
外に立つとる人たちんところ機銃掃射きじゅうそうしゃでね、
もう、あの、敵のメガネのあれ(ゴーグル)をはめとるのがよく見えましたよ。
こう乗り出して機銃掃射きじゅうそうしゃでダダダダダーッ、っと。
後ろの飛行機からはね、なんか写真を撮っているような状態だったのね。

『ギャー』ってやられる人もおるし。
そらもう、しゃがみ込んで頭押さえる位が関の山で、どうすることもできん。
そぅして、『ここにおったら危ないから移動して下さい』言うて。

道ばたに電車げて、窓にぶら下がってる人を2人見ましたね。
電車の上がり口のところに重なって死んでいた。
それから、死体があっちこっちあるから。
連れてってくれとしゃがみ込んでいる人、
真っ裸でうろうろしている人もいましたね。
血だらけになった人とかそれはそれはそれはもう、
地獄の真ん中に立たせられたという感じでね。

被爆者の絵・飛んで来たグラマンF6Fと炎上する工場(深堀勝一 画/長崎県被爆者手帳友の会 提供) 

この証言の関連ホームページ
市電の吹き上げられた屋根 左記のトップページはこちら→ THE JAPAN PEACE MUSEUM

移動 ▽次 △前
証言1668月9日 直後〜30分後位南無大師遍照金剛当時19歳
三菱兵器を無我夢中でみんなの後ろから逃げ出したときには、
ちょうど、あたりは黄色いような、黒いような黄色いようなね、
世の中になっているんですよ。
昼なのか夜なのかからないようなですね。
薄暗いような黄色いような、空、全体が、
そういう、光がなくてこの世の、ものとは思えないような状態。

逃げていく人たちの姿というのは無惨むざんで、
田んぼの中に女の子がバタンと倒れたんですよ。
ちょうど私の前を行ってましてね。
2〜3歩行ってバタンと倒れたんですよ。
どうするかなと思ってけ寄ったら、自分でまた立ったんですよ。
立ち上がって、また何歩か行ったら、もうパタッと倒れたんですね。
それで、側に行って『しっかりしなさい』って揺すったんですよ。
『看護婦さん呼ぶからね』って言ったんですよ。

『お母さん』と言って、それから『南無大師遍照金剛なむたいしへんじょうこんごう』っていうお題目を
2回くらい聞いたように思います。



この証言の関連ホームページ
南無大師遍照金剛(短い動画) 左記のトップページはこちら→ YouTube

移動 ▽次 △前
証言1678月9日きたない水に十字を切って当時15歳
『水が飲みたい、水が飲みたい』って言うんでね、
きたない泥水でしたけどね、
近くからカボチャ、2つに割れてるのを拾ってきて、
中身ほじくり出して、それで、まあ、きたない泥水に十字を切って、
その水をんでいって飲ませたりしたんですけどね。

私はクリスチャンですからコンタツ(ロザリオ=十字架)を持っていたんですね。
クリスチャンじゃない人たちに貸して、
それで、何人もで一つのあれを持ちながら一生懸命いっしょうけんめい祈ったりしました。
そうするうちにシスター、童貞どうてい(修道女)さんですけど、2人来てくれた。

純心高女廃墟俯瞰図(現地プレートより) 純心高女慰霊碑 伊藤明彦 撮影 純心高女慰霊碑、姓名の列 伊藤明彦 撮影 

この証言の関連ホームページ
コンタツ(中程) 左記のトップページはこちら→ 歴史に好奇心!さわらび通信

移動 ▽次 △前
証言1688月9日 1時間後位?お願い、屋根を持ち上げて当時10歳代
そしたら、男の40代ぐらいの方でしたかねぇ、
座って私たちに、こうおがむんですよ。
どうしたんだろうと思ったら、
『お願いです。この家の下に、家内かないと子供と、
5人が下敷きになっているから
この屋根を持ち上げてくれませんか』って言うんですよ。

で、みんなキズだらけでしょ。逃げていく者全てがね。
で、もう一応私も握りました。あの、屋根の端の方をね
握ったけど、皆、もう身体は血だらけだから、みな怪我けがしてるから、
もうそれに、同情はできなかったんでしょうね。
下敷きになっている屋根の上をどんどん逃げていくんですよね。

私も可哀想かわいそう可哀想かわいそうで、その男の方が手を合わせて、泣いて、
『これを持ち上げてください、持ち上げてください』って言うんだけど、
誰一人、逃げるのが精一杯だったんで。
いつ自分たちが、敵機が来てやられるかと不安で、
私もね、一番最後になって一人になったんですよ。
なんとか手伝おうと、こうしたけど、持ち上げられなかったから
『ごめんなさい』と先の方に進んだんですけど、それが未だに…




移動 ▽次 △前
証言1698月9日 30〜40分後どうか立ち止まって、力を貸して当時16歳
今考えてみるとですね、
爆心地の方からゾロゾロ人が逃げて来るんですよ。
逃げて来ると言ったって、駈けてくるんじゃないですよ。
とぼとぼとぼとぼ歩いて来るんです。その歩いて来る様子はね、
私は幽霊見たことないけど、幽霊というのは、よく、前の、
両方の手をだらっとぶら下げてね、
あの「うらめしや」という感じで描かれているでしょ。
あの幽霊みたいな格好してるんです、みんな。
自分の腕の皮膚をダラーっと、指先にぶら下げてね。
そして、前の人に並んで、とぼとぼとぼとぼ歩いて来るんです。

私がね『私の友だちがここの屋根の下敷きになって、
屋根が重くて一人の力では、動かしきりませんから、
どうか立ち止まって、力を貸してください』と、
私は頭をぺこぺこ下げて頼んでみるんですけど、
誰も止まってくれないんですよ。
なんかあの、放心状態というのかな。
私がどんなに頼んでも止まってくれないんです。

被爆者の絵・手を下げやってくる火傷の人々(長崎原爆資料館 所蔵) 被爆者の絵・川に入っている人々、防火用水にむらがる遺体(長崎原爆資料館 所蔵) 

この証言の関連ホームページ
幽霊画コレクション 左記のトップページはこちら→ ザリガニの何処を開けても骨董だらけのホームページ

移動 ▽次 △前
証言1708月9日肉で歩いてるんです当時26歳
沢山たくさんの負傷者が来るわけですね。
みんな、腰にひも一本だけを巻いているんです。
着物が全部吹き飛ばされてる、それで今度は夏ですから薄着うすぎ
そうしますと今度は、着物ばかりじゃのうして皮が吹き飛ばされているんです。
皮が吹き飛ばされて、切れずにぶら下がって、
丁度ちょうど、風呂敷をぶら下げたように、皮がぶらぶら下がっているんですね。
それを引きずるように歩いて来よる、皆裸足です。

『熱か熱か、どこまで行っても熱か』。
というのは、その人達は、もう裸足で焼け土の上を歩いているから、
皮は焼けてなくなっている。肉で歩いてるんです。
だから、痛いのも熱いのもわからないような状態ですね。

そのわきの道路には、たくさん南に向かって倒れて死んでいるわけですね。
その人達は、歩き続けて焼け足で腹ばうようにして来た人もおります。
そうすっと、その人達死んでるけどね、
その人達のたましいはやっぱり南に向かって、
歩き続けていると思っているんですよね。

被爆者の絵・川に入っている人々、防火用水にむらがる遺体(長崎原爆資料館 所蔵) 被爆者の絵・火傷して裸で逃げて来る三人の男女(石原公明 画/長崎県被爆者手帳友の会 提供) 


移動 ▽次 △前
証言1718月9日次から次、次から次へと当時36歳
ビックリしてね、私、もう本当、動けなかったんですよ。
ていうのはもう、素っ裸ですね、そうしてもう、
身体中がれ上がった人たちがね。
本当に人間じゃないですね、なにも着ていないんですから。
あるいはゴザみたいなのを身体に巻き付けたりね。

そういう調子の人たちが次から次へと歩いて来るです。
何時間も何時間もかって、火の中をくぐって来た人たちですよね。
腕の皮がぶらっと下がったり。

本当に皮はあんなに下がるもんだということを、私初めて知りました。
股の皮でもなんでもビローっとげましてね。そして髪の毛なんてのはこう。
髪の毛は逆立つと言いますね、逆立つという形容けいようは全く本当ですね。
もう、1本1本、逆立っているんですよ。
そしてそれがもう、焼けたところもあるしですね。
そういう人が次から次、次から次へともう、
ずーっとつながっているんですよねぇ。

被爆者の絵・火傷して裸で逃げて来る三人の男女(石原公明 画/長崎県被爆者手帳友の会 提供) 被爆者の絵・手を下げやってくる火傷の人々(長崎原爆資料館 所蔵) 


移動 ▽次 △前
証言1728月9日 午後今でもあの子に何とか水を当時27歳
とにかく、死の行進と言いますか、
もう、頭はちぎれたり真っ裸であったり、
真っ黒になった人、とにかく、夢遊病むゆうびょうしゃのような状態ですね。
それでもやっぱり逃げたいという心理でしょうね、
ゾロゾロ来よるんですね。そうかと思うと、動ききらんで
芋虫いもむしのようにゴロゴロしながら…。

いまでも私の目から離れんですが、若い娘の子やったですが、
真っ裸で、真っ黒に汚れ…、汚れというか…火傷やけどしとると思いますけど。
『私は…、ウチは死ぬとよ、水ばくれんね、くれんね』言いよるもんあんた。

ほってんか(だけど)、水を、自分も手がふさがってどうもならんもんじゃけん。
水を飲ましてやりた(い)ねー思うけども、そいがでけんでですねぇ、
そのまま見捨てて帰りました、あの…、逃げたですけど…。
今でもあの子に何とかして水を飲ませてやりたかったなぁと思います。

被爆者の絵・散乱して倒れている人々(長崎原爆資料館 所蔵) 

この証言の関連ホームページ
芋虫 左記のトップページはこちら→ 蝸牛村小動物学会。小動物の話題何でもOK。

移動 ▽次 △前
証言1738月9日 夕近く首のない赤ちゃんに『泣くなよ』当時23歳
…そして、行き交う人を見れば、…全裸の人も居るですもんね。
そして、こう、皮が腰までぶら下がっちょっとのね。
浦上うらかみの方から、こう、走ってくる人たちの姿を見る。

これが新型爆弾じゃなかろうか、とその時はじめて思うたですね。
いちばん記憶に残ったのは、その、首のない赤ちゃんをからって(背って)
自分もすでに、まぁ全裸にはなっちょらんですけど、
前の方だけしかなかったですけども。
それでも、『泣くなよ、泣くなよ』言うてですね、
と言うて走る人の姿を見たとき。
本当に、戦争というのがむごたらしいもんなあと、
本当にそん時感じたですね。



この証言の関連ホームページ
新型爆弾が落ちた 左記のトップページはこちら→ Being Nagasaki

移動 ▽次 △前
証言1748月9日 午後魂まで吹き飛んだような状態に当時32歳
外人墓地の上の、広い畑の中で、
そこにたむろしてる、その多くの火傷やけどとか怪我けが人。
沢山たくさんたむろしている団体に出合って、
9年間も中国で戦争をし、何十人もの、死体を、見ながら、
少しもそういうことに、驚かなかった自分が、
その状況を見て、たましいまで吹き飛んだような状態になってしまいました。

ほとんどの方が、火傷やけどで本当の顔もからないし、
抱いている赤ちゃんは、もうすでに、息もえに、してるのに、
母は一生懸命いっしょうけんめいおっぱいを与えるような格好で、あやしてる。
背中の赤ちゃんは、一生懸命いっしょうけんめいおっぱいを求めて泣くのに、
もうすでにお母さんは、虫の息と、いうような、姿。
あるいは大きな負傷をいながら、口もけないようなお年寄り。
その周囲を、兄弟らしい2人の少年が、母の名を呼び、
父の名をさけびながら、狂ったように走り回ってる姿を見たとき…

被爆者の絵・緑の草の上の被災者たち(長崎原爆資料館 所蔵) 国際外人墓地 伊藤明彦 撮影 


移動 ▽次 △前
証言1758月9日 午後早い時間うちの防空壕やけん、出て行かんね当時16歳
下の方から原爆で怪我けがした人たちが三々五々さんさんごご
列作って、ずっともう、上って来ているんですね、無数に。
それで、その人たちが上る途中で、
せいこんも疲れ果て、次々に倒れていくんですね。
道の両脇りょうわきには、バタバタそういう人たちが倒れて、
赤黒く焼けただれてふくれ上がった人たちがですね。
目も当てられないような状態でバタバタ転がっているんですね。

で、その人達なんかは、ものすごのどかわきがあったのでしょうね、
その道のわきの方にどぶみぞがあったんです。
そのどぶのみぞの、水の中に顔をつっこむようにして、
ほとんどの人が息えているんですね。

それで、そんなとを、こう見ながら上って行ったんですけど、
そうするとですね、また飛行機の爆撃ばくげき音が聞こえたんです。
そうすると、その家の人たちがあわてて、前に防空壕ぼうくうごうがあったんですね。
そこの家の防空壕ぼうくうごうだったんですけど、
そこにみんな家族全部避難ひなんしたんですよ。
しょうがないもんだから、私もその後から付いて、入って行ったんですよ。
ところが、その人たちは先に入って、後から来た自分を見たら、
『あんたどこのもんね、ここはうちの防空壕ぼうくうごうやけん、すぐ出て行かんね』と、
こういう風に言ってですねぇ。

上空には敵機が、こう旋回してるんですね。
その中を『出て行け』と言われるでしょう。
出て行けば、機銃掃射きじゅうそうしゃでも受けて、たちどころにやられるけんなぁ、
というの恐怖心があったんですけど、
出て行けと言われるもん、しょぅんないですねぇ。
そいでもう、泣く泣くですね、そこを…

被爆者の絵・黒い防空壕の入口(長崎原爆資料館 所蔵) 


移動 ▽次 △前
証言1768月9日 2時間後位?これではもう、復興もどうにもならん当時38歳
坂のある丘をよじ登ったわけですね。
登ってそこに、ちょっと広い大きな墓がありましたが、
その墓の…、20名が立って、そこで下を眺めて初めて唖然あぜんとしたわけです。
『わーつ、たーっ』っと言うため息。これではもうだめだと。
他の21名の人も、みんなもう唖然あぜんとして、『うわーつ』と、
驚嘆きょうたんの声をらすだけだったですね。

まあ、その周囲の山は、山火事を起こしているし、
ほとんど木造建築で残っている家は一軒も見えないしですね。
工場の鉄骨は、あめのように曲がって、もちろんスレートも飛んでしまう、
ガラス窓も、ガラスも飛んでしまってですね。
これではもう、復興ふっこうもどうにもならん…

三菱兵器大橋工場廃墟(小川虎彦 撮影/長崎原爆資料館 所蔵) 三菱兵器製作所大橋工場廃墟(現地プレートより) 三菱重工原爆供養塔 伊藤明彦 撮影 三菱重工原爆供養塔、原爆殉難者芳名碑 伊藤明彦 撮影 


移動 ▽次 △前
証言1778月9日 1時間後位?落ちる度に、街は火の海に当時17歳
がけを、石崖のくえたくずれた)ごたっところを、うたごとして行った。
で、山の、山の頂上ちょうじょうの方に行ったところが、
兵隊の姿はなるほど見えたけども、兵隊も火傷やけどで真っ黒、
顔は黒こげになっとるわけですよね。
ほっで『薬はないか?』って言ったけど。
『薬もない、水もない、我々もこんな状態じゃから、
そんなその、薬やら水、補給もでけん』て言うた。

山にくのと同時にドラム缶が「ボーン」と破裂はれつして、
上に上がって、パーンと爆発して、落ちる度に、街は火の海に、
次から次ぎさんなっていったんですね。

ほっでもう、山の上におっても、顔が熱いわけです、
ものすごい熱いわけですよ。
そいけどもう、ビリビリするわけですね。
そのうちにき気が、ものすごき気がするし、
き気がしてでも、くものがないでしょ、
腹の中になんもないもんじゃから。
で、あのにがい胃液をくんですよ。それがくるしゅうてからもう。

被爆者の絵・炎上する被爆地(水江オケ・長谷川誠 画/長崎県被爆者手帳友の会 提供) 


移動 ▽次 △前
証言1788月9日 正午過ぎ?はっ、県庁が燃え出した当時16歳
山を越えました。と同時に、そこに居る十人内外の男の方々が皆、
本当に腰を抜かしてしまいました。見渡す限り火の海なんです。
もう、煙で遠い方面は見えません。ただ、真下の三菱、工場、
製鋼所せいこうしょなんかも一面火の海なんです。
そして、音が山の上まで聞こえてきます。
その「ゴーッ」という燃えるような音は今でも、忘れることができませんけど。
そこでもう、へたへたっと皆さん座り込みまして、
どうしていいのかすすべを知らないというか、全員座り込んでしまいました。

見ているうちに、県庁が燃え出しました。
そこにいる人たちは全員で、『はっ、県庁が燃えだした。
どうしたんだ、消防隊はどうしたんだ』と言ってるんですが、
消防隊の方だって全滅したのかもかりません。
とにかく、飛び火をしたような格好で、県庁が燃えていました。
我々は山の上から、歯ぎしりをして残念がるんですが、
見る見るうちに燃えて行くわけです。

被爆者の絵・炎上する被爆地(水江オケ・長谷川誠 画/長崎県被爆者手帳友の会 提供) 長崎県庁廃墟(小川虎彦 撮影/長崎原爆資料館 所蔵) 

この証言の関連ホームページ
長崎中心部のパノラマ景観  左記のトップページはこちら→ 地球の旅

移動 ▽次 △前
MC12この時刻を遡ることおよそ1時間
【ナレーション】
この時刻をさかのぼることおよそ1時間、
爆心地の東側、山里やまざと国民学校と長崎医科大学付属病院付近




移動 ▽次 △前
証言1798月9日 直後助かったのは、男では私一人当時26歳
先ほどまで、一列になりまして、土を手送りしていた女の先生、
あるいは外に出て、足をいていた男の先生、
一人残らず倒れてうめいていました。
しかもそれが、上半身何も付けない…、付けていないのです。

おそらく爆風ばくふうぎ取られたのか、熱のために焼けてしまったのか、
出ている手足や顔は焼けただれまして、雑巾ぞうきんのような皮がぶら下がり、
二目ふためと見られないような様子でした。仲間の先生でなければ、
一目見ただけで、私は、気味悪くなって逃げ出しただろうと思うのです。

それから、イチノセという先生がいらっしゃいました。
やはり外にいまして、土を手送りしていたんですが、
その先生が10m以上も吹き飛ばされて、
がけに打ち当てられて即死していました。
しばらくしますと、他に行っていました女の若い先生、
教頭先生が学校に帰ってきましたけれども、
一人残らず、背中いっぱい赤く焼けただれた、痛ましい姿をしていました。
そして、みんなもうガタガタふるえまして、『寒い寒い』と、
しきりに訴えるんですけども、着せる物は何もございません。
その時に学校に出まして助かったのは、
男では私一人、女の先生が3名でしたけれども…

山里小学校校舎裏の防空壕入口 伊藤明彦 撮影 山里国民学校廃墟(現地プレートより) 山里小校庭 伊藤明彦 撮影 

この証言の関連ホームページ
山里国民学校 左記のトップページはこちら→ 長崎市立長崎商業高校
平和への願い(上記のコーナートップ)

移動 ▽次 △前
証言1808月9日 直後血のような月の色当時58歳
こりゃこうしておれんから、まずは外に出なくちゃならんと、
いうので、診察室しんさつしつから廊下の方に出てみたです。
ところが、廊下には、上から建築材料が沢山たくさん降ってきて、
とても歩けないほど。隣の部屋を通って出ようと、いうので、
机の上を飛び越えて窓から飛び出して。

外へ出てみたら、いわゆるキノコ雲というか黒い柱が浦上うらかみの、
丁度ちょうど今の爆心地の辺にあたって、ズーッと立っておったです。
丁度ちょうど8月の真昼の太陽が、その雲の中から上に見えるんですけど、
真っ赤な太陽のような気がした。

その時私は、どういう何であったか、自分でもああいうこと考えるものかなと
思うもんだけれども、丁度ちょうど「サロメ」という劇があったですな、
オスカー・ワイルドの書いた劇の中に、
「今夜の月の色は、血のような色に見える」という、
衛士えいしがそういう台詞せりふを語るところがある、あの「サロメ」の劇の中の、
その血のような月の色というそれを連想して、…

被爆者の絵・きのこ雲(嘉松半四郎 画/長崎県被爆者手帳友の会 提供) 長崎医科大病院廃墟(小川虎彦 撮影/長崎原爆資料館 所蔵) 爆風で傾いた医科大の門柱 伊藤明彦 撮影 

この証言の関連ホームページ
長崎医科大学付属病院 左記のトップページはこちら→ ペガサス ホームページ

移動 ▽次 △前
証言1818月9日 直後もう見渡す限りペシャンコ当時26歳
気がついたときには部屋の隅っこに、先生も看護婦も患者も、
ひとかたまりになって吹き付けられていたわけですね。
それで、物が壊れたりなんかした煙で息ができないんですね。
何とか息をしたいと思って、丁度ちょうど3階に居ったですから、
で、屋上が4階ですけども。屋上にまずけ上がろうと思って
廊下の方に出たら、廊下も足の踏み場もないんですね。
でもやっと、倒れた物の間を通って屋上に出たんですよ。

その時に、この外が何となく明るく見えてきて、
そしてもう見渡す限りペシャンコになっている。
最初に外来を…、で、患者をとった時にはですね、
自分だけがやられたんではないかと思ったんですけどね。

屋上に上がって、初めて見渡す限りが跡形ない…、
いうこと見て本当ぞっとしたですね。
そして、玄関のところまでやっと、まあ。
玄関というのは病院の玄関ですね、降りてきたんですが、
もうその玄関の入り口あたりには重傷者がうめいているわけですね。
ほとんど、着てる衣類は吹っ飛ばされてる、
あるいは手足は吹っ飛んでいるという状態…

長崎医科大病院廃墟(小川虎彦 撮影/長崎原爆資料館 所蔵) 医学部 西森一正助教授(当時)の血染めの白衣 伊藤明彦 撮影 

この証言の関連ホームページ
西森一正名誉教授プロフィール 左記のトップページはこちら→ 長崎の原子爆弾被害に関する科学的データ
血染めの白衣 左記のトップページはこちら→ 長崎の原子爆弾被害に関する科学的データ

移動 ▽次 △前
証言1828月9日 前話直後至近弾が近くに…どこも同じ当時58歳
もう病院の方に向かって、坂道を沢山たくさんの人が上がって来よる。
その人を見ると身体中焼けただれて、着物はボロボロにがれてですね。
下の方は、着物が焼けて、切れて落ちてしまっている。
そういう患者が救いを求めて『のどがかわく。水が欲しい。
助けてくれ』と言って上がって来よる。
けども、私、そんなもの、何にも材料もないし、

はじめのうちは、幾分いくぶん診察着しんさつぎをさいて、
しばってやった人も1、2はあったと思うけど。
その診察着しんさつぎもそういう余裕がないほどであるし。

来た人の話によると、これは『至近弾しきんだんが自分の近くに落ちた』と。
『そこで自分は、大学病院の方に助けを求めて、
治療ちりょううためにやって来よる』
ところが来てみたら、どこも同じようなことだ、
ということで驚いた様子でしたね。

長崎医科大附属病院の廃墟(現地プレートより) 長崎大学医学部正門前の慰霊碑 伊藤明彦 撮影 


移動 ▽次 △前
証言1838月9日 30分後位?『あなたの顔はお化け』、自分も当時37歳
天井からコンクリが落ちてくる、どげんしたらよかろうか、そして、
ひょっと見たら、一間いっけんばっか先の方が火の海でございましたもんね。
そして、先生方も誰も、かばんげながら立ち往生しとんなさるでしょうが。
それから私も、逃げなきゃ、ここ逃げて行かなくちゃ、できないと思って、
こんなにしとったら死んでしまう、どうしようかと思いましてね。

こっちからは煙が来よる、こっちからは火が来よる。
地獄だろうかと思ってですね、『助けてください』て、
本当『助けてください、助けてください』ておめいたですけどもぉ、
誰一人、死にかかった、転んどる人ばっかりでしょう。

もう、わたしはもう、しかたなかと思ってこう寝とったら、
向こうの方から『何とかしてって来なさい』っておめきなさるとですよ。
本当ですね、何とかして逃げなくちゃ、
そらもう、自分だけなら死んでもよかばってん、
子供や主人がもし生きていたならね、可哀想かわいそうやからって言うてですね。
『あなたの顔はお化けのごたる』て私に言うて、
自分もお化けのごとなってしとんなさったですもん。
カトリックの人だったから、今度は、自分の宗旨のお祈りでしょうか、
しよんなさった。
そーしてもう、泣いてみたり、笑ろうてみたりして…




移動 ▽次 △前
証言1848月9日 30分後位?お腹が切れ、サッシが盲貫当時15歳
大学病院の裏手の、その小高い丘の上まで逃げまして、
ここまで来ればいいかと思ってひょっと病院の方を見たんです。
その瞬間でした、窓という窓から一斉に火を噴いたんです。
あれは、すぐ火が出るんじゃないんですね。

当時、そうですね、いいおじさんに見えましたから
40か50位の方だったんでしょうか、
お腹が切れちゃってるんです。かなり深く。
両手のひらでちょうが外へ出てくるのを押さえてんです。
その指の間からちょうが出てくるんですね〜。
手をこう、交互に上下しながら盛んにそれを押さえて
うずくまっていた方がありましたねえ。

それとですね、下級生です。商業(学校)の。
1年生かせいぜい2年生ですか、当時学校へ行ってた子は。
窓枠、サッシというのは怖いもんです。
あれが爆風ばくふうでしょうね、飛んで来まして、
腹から背中へ貫通かんつう…じゃあないです、盲貫もうかんですね。
そばを通る私を見かけまして、その子が『取ってくれ』って泣くんですが、
学生さんが『取っちゃだめだ』と言われたんです。
今考えてみると、出血多量を言ったのだと思いますが、
痛がるんですねえ。

痛がって抜いてくれと言うんですが、
『抜いたら死ぬからダメだ』と言われて、
もちろん私たちも逃げて行かなくちゃなりません。




移動  △前
証言1858月9日 直後本当にこれでこの世の中終わり当時26歳
そのうち火が出始めたんですよ。
ことに、火の出る場所があっちこっちで。
それで、非常に急いで重傷者を早く助け出そうということに
なったんですけど、どんどん燃え始めるまま、
もうちょっと危ないからということで、
あきらめて山手の方にみな避難ひなんさせたわけですね。
その間、雨がちょっと来ましたですねえ。
重傷者をだいぶん山手の方にかつぎ上げたわけですよ。

ずーっともう斜面ですね。病院から穴弘法あなこうぼう(寺)に、
相当急な斜面ですけども。
そこには、やっとそこまでい上がって来た連中、
あるいは助けながら運んで来た重傷者がうめいているわけですよ。
すでにその辺りで事切れている人もおりましたし。

段々火が近くで燃えるものだから、熱くて居れなくて、
ずうっと山の上に上っていったわけです。
そこで病院が真っ赤に燃えている、基礎教室も、
もう炎に包まれておったですね。
なさけなかったちゅうか、本当にこれでこの世の中終わりという気が
ちょっとしたですね。

被爆者の絵・燃える医大病院周辺、8月11日夜〜12日(平山兼則 画/長崎県被爆者手帳友の会 提供) 

この証言の関連ホームページ
付近の地図 左記のトップページはこちら→ Yahoo!地図情報