完全な遺体か、生きているか、はっきりかるわけですが、
それらをとにかく処理しろと。

次の日は我々はもう、なんも…じかにその方たちを、
もう衣類はほとんど焼けておりますからね。
肌を結局持って、えー、運ぶわけですが、
えー、50人ぐらいの山にしては、あの、
『よし、ここはよろし』と言われたら、
そこへ重油を置いて、それに火をつける。

死体芬々ふんぷんする中で、我々は握り飯を食って、また死体を運ぶと。
もう、二日目あたりからはもうあの、遺体もほら、手がつけられんで、
握ったら、つるっと一皮けるんですね。
そのつるっとけた一皮がこちらの手に移るわけですわ。
中には髪の毛が残ってみたりね、
くさった皮膚と一緒に付着して取れないんですね。

現実に私は100名以上の遺体を処理した。
その中には、あー、知った近所の、そのときは綺麗きれいだった
お嬢さん方もいらっしゃったし、そういったものを機械的に運んだ。
何の感動もなく、運んだということですね。
そしてそれを平気で焼き、三日目にはもう、これ、運べないからあの、
火事の時の鳶口とびくちってありますね。
あれで目のところをぐっと刺して、そしてそれを持ってあの、
引きずりながらですね…

被爆者の絵・ダビにふされる死体(松永虎槌 作/広島平和記念資料館 提供) 

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