えー、分けても、女子学徒がくとですね。
この貯水槽、大きなやつが町にこうありましたが、その中へ折り重なって、
身体がもうほんとにふくれ上がって、この、死んでおりましたですね。
だから、水を求めて、貯水槽に集まったもんでございましょうが、
もう二重三重にその中に折り重なって死んでおると。
で、日赤とか、県病院に、まだ、あー、生命のある、命のまぁある、
かろうじてある生徒を運んでありましたが、この、収容しゅうようしきれないので、
日赤あたりでもですね、門のところにずっとこの置いてあるわけですね。

それでこの、無欲顔貌むよくがんぼうといいますか、これのその程度の極度ですね、
ですからこの、声をかけても反応が無い。
まあこの世の人とは思えないという。
あくる日行ってみると何人かがそのうち死んでいる。
場所を変えてわきへ移してあると。

中に元気な人は、『自分はこうして建物疎開動員どういんをされて、
連れてこられた。そしてこういうことになったんだが、
えー、どこどこに自分の家族がおるはずだから、えー、伝えてほしい』と。
『はい、承知しました』と言う風に返事する以外にしようがないわけです。

そこらあたりもう焼け野がはらで、誰こそおりゃせんので、
この、連絡のしようのないことはかってるんですけれども…はい…

被爆前の赤十字病院(現地プレートより) 赤十字病院と遺構 伊藤明彦 撮影 広島県立病院(現在) 伊藤明彦 撮影 

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